日本地理学会発表要旨集
2004年度日本地理学会秋季学術大会
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明治期の外国人による避暑慣習の伝播と高原避暑地の形成
*佐藤 大祐斎藤 功
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p. 46

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抄録

_I_はじめに 熱帯における避暑慣習はイギリス統治時代のヒマラヤ山麓シムラで始まり,インドネシアやマレーシア,ベトナムなど東南アジアの欧米植民地にも伝播して,各地に高原避暑地が形成された。このような高原避暑地の形成過程は日本にも当てはめて考えることが可能である。すなわち,避暑慣習は欧米人によって東南アジアから日本に伝播し,横浜などの外国人居留地からほど近い高原に避暑地が形成されたと考えられる。このことから,日本における高原避暑地の研究では,欧米人の日本社会への進出とその時代背景,および横浜などの外国人居留地との位置関係の中で,高原避暑地を捉える必要性ある。 発表者はこれまで,高原避暑地の形成に関する事例研究を公表してきた。本報告は,外国人が明治期の日本に避暑慣習をもたらし,横浜居留地を中心にそれが伝播することで,高原避暑地が各地に形成された過程を明らかにする。_II_欧米人の日本社会への進出と避暑 1859年の開国とともに,長崎や横浜などの開港場に外国人居留地が設けられた。そして1868年の明治維新以降,西洋文化が積極的に導入され始めると,貿易を担う外国人居留地は大きく成長した。当時の外国人の行動範囲は,外交官を除いて居留地から10里以内に制限されていた。しかし,日本在住の外国人にとって,熱帯に匹敵する高温多湿の夏は耐え難いものであった。そのため,彼らは熱帯の植民地でもそうしていたように,高原避暑地を求めたのである。外国人の国内旅行は1874年にようやく条件付きで許可され,1879年には御雇い外国人の国内旅行が大幅に緩和された。_III_高原避暑地の形成 1.宮ノ下と箱根宿 箱根山腹の宮ノ下には9軒の湯治宿が存在し,横浜の外交官が1870年頃から騎馬や駕籠で避暑に訪れた。1878年には洋式の富士屋ホテルが開業した。1881年においても「横浜や東京の大多数の居留者とその家族は,景色がよくて健康的な土地柄に惹かれて,夏と秋には宮ノ下を」訪れた(英王立地理学会員クロウ)。一方,芦ノ湖畔に位置する東海道の宿場町・箱根宿では,1868年にイギリス公使パークス一行が夏の2ヶ月ほどを柏屋に滞在した。これは,インド総督がシムラに夏の政庁を移したことに影響されたものと言える。 2.日光と中禅寺湖 イギリス公使パークスは1870年に本坊に日光を訪れ,杉並木の景観や東照宮や輪王寺の社寺観光を楽しんだ。標高600mの日光は避暑地としても注目され,1873年には金谷カッテージ・インが開業した。1875年には”A Guide Book to Nikko”が刊行され,1885年に上野_-_宇都宮間の鉄道が開通すると,外国人避暑客が増大した。一方,標高1,200mの中禅寺湖では1890年代半ばから,避暑客で混雑した日光を避けた外交官らによって別荘地が形成された。 3.軽井沢 軽井沢においては,宣教師ショウが1886年に別荘を建てたのが最初である。1893年の鉄道開通後,1890年代には東京や横浜,大阪など主要都市の宣教師が,1900年代には地方都市の宣教師が別荘を建てた。宣教師は日本国内だけでなく東アジアや東南アジアからも避暑に訪れ,布教会議や音楽会,スポーツなどを通して交流した。 明治期に形成された高原避暑地には,次のような共通点がある。1)自由に旅行できる外交官などによって気候や景観,娯楽などの点から選好されたこと,2)湯治場や社寺などの観光資源があったこと,3)鉄道開通後の避暑客増加を避けて芦ノ湖畔や中禅寺湖畔に衛星避暑地が形成されたこと,4)かつての宿場や山岳修験道の宿泊施設があったことなどである。これらを基礎条件に,鉄道延伸などの社会背景によって避暑地の形成時期や客層などに差異が生じたものと考えられる。

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