抄録
1.背景本研究の背景として、世界遺産制度における諸問題があげられる。第17回(1972年)ユネスコ総会で採択された「世界の文化及び自然遺産の保護に関する条約(通称、世界遺産条約)」は、過去の文明の実相を解明する手掛かりとなる遺跡や貴重な自然等の保護を通じて多様な文化における相互の尊重を目的とする。世界遺産リストには文化的多様性の反映が必要不可欠とする理念がある。その一方で、異文化間の「固有価値(池上、2001)」は比較不可能である。したがって、制度は文化の水平化を目指しながら、リストへの登録は固有価値の序列化といった矛盾を伴う。稲葉(2004)は、制度が文化的多様性とは何かという問題と、世界遺産リストとは何かという問題に直面している点を指摘している。それに対して、世界遺産委員会では次の対策を行っている。数の増加に対し、初めて申請する国を除外した各国年間1件の申請に限定している。また、地域的偏在に対しては、基準の拡張によって無形文化の登録を促進する、"Global Strategy"(以下、「戦略」)を1994年以降行っている。しかし、問題は解決されていない。2.目的・意義本研究の目的は、世界遺産リストにおける偏在の原因を風景論の観点から明確化することである。ユネスコの認識は、偏在の原因として「風土(和辻、1935)」の違いから生じる有形文化と無形文化に依拠している。しかし、地域の固有価値を世界遺産として評価する場合、すべての文化に普遍的側面がある一方で、その価値は比較不可能である。また、世界遺産の登録に対するユネスコの理想と国家の目的は分離する。したがって、偏在の原因はユネスコの認識とは異なると考えるため、理論的分析が必要である。本研究の意義は、ユネスコに対する政策提言である。「戦略」は、文化的多様性を促進してはいない。「戦略」における対象基準の拡張は、多様な価値の反映を可能にする一方で、あらゆる文化の遺産をすべて登録することは制度の意味を無に帰する問題がある。したがってユネスコは、全体として登録数を増加させることなく、制度の目的を達成することが求められている。そのため、制度の理論的背景を問い直す議論の必要があると考えられる。しかし、対処療法的な議論は多くなされている一方で、理論的側面から制度の問題点を明らかする研究はほとんどみられない。本研究は、世界遺産制度の方向転換を示唆する研究として位置付けられる。3.結論「価値」の評価不可能性と比較不可能性及び、偏在と国家主権の関係から偏在の原因を論じた結果、偏在は国家主権を前提とした制度に内在化されていることを結論した。まず、偏在の仕組み及び理想の分布と事実上の分布が一致しないことを示した。客観的指標として偏在を明示することは不可能であることを示し、「戦略」において明確な目標を設定することが困難な点について述べた。その上で、遺産を風景として再定義し、「アイデンティティの指標と保障(Berque, 1990)」という二つの側面をもつ風景として遺産を議論した。その結果として、リストには「指標」より「保障」が過大に表象されることが偏在の原因の1つであることを示した。したがって、「戦略」は目的を達成しない可能性を指摘した。参考文献池上惇(2001):文化と固有価値の経済学,文化経済学,2(4)、pp.1-14稲葉信子(2004):「ユネスコ世界遺産条約が目指すもの‐運営の実際と限界‐」『国際交流』第一法規、26(2)、pp.49-55.Throsby, D., (1999): Cultural capital. Journal of Cultural Economics, 23. pp. 3-12.Berque, A., (1990):『日本の風景・西欧の景観』講談社.和辻哲郎(1935):『風土』岩波書店.