抄録
I 問題の所在今日,グローバリゼーションが世界の諸民族をも覆い始め,各々の民族は,独自の慣習を失いつつある.一見して民族間の違いが,明確ではなくなりつつまる.反面,世界各地では少数民族の動きが顕著になりつつある.こうした民族の没個性化が進む時代に,世界各地の社会的弱者である少数民族が,どういったメカニズムで,自己と他者である多数(支配)民族との間に境界を保つのかという点は,国民統合や多様性の維持という点からも非常に興味深い.さて,今回の事例とするペー族は,雲南省大理白族(ぺーぞく)自治州(以下,大理州)に住んでいる.「壩子(パーズ)」と呼ばれる盆地に住むペー族は,明代を中心に移住してきた漢族との接触の歴史が長く,加えて,生業形態も似ていたために,漢族からの文化的な影響を最も多く受けてきた民族の1つである.上記の背景のもと,改革開放後(1980年頃)から,大理州のペー族は,大理壩子,鶴慶壩子などの盆地に住むものを中心に出稼ぎを始めていた.彼らの出稼ぎは,民国期以前(から1949年)から大工や石工などの技術を用いた伝統的な出稼ぎだけではなく,現在では,新しい職種の出稼ぎにも進出している.そこで,本発表では,迪慶藏族(チベットぞく)自治州徳欽県城において出稼ぎを行っている鶴慶壩子出身のペー族と,彼らが新しく始めた出稼ぎの1つである自動車修理業をとりあげる.その技術の伝播とこれらのペー族の移動とその意味から,ペー族の漢族に対する民族境界の維持の仕方について考察することを目的にする.
II 漢族からペー族への自動車修理技術の伝播1980年代前半の雲南省大理州では,日本へのマツタケ輸出のラッシュであった.しかし,1987年には大理州政府が統制を強め,鶴慶県のペー族の一部は,徳欽県にマツタケを買い求めるようになった.その後,徳欽県でも県政府の関与が強くなり,バイヤーの1人が,ミャンマーでの出稼ぎが嫌で帰ってきた自分の友人2人と共に,漢族の自動車修理工の徒弟となった.その後,1990年代後半になると,次々とペー族が同業を開業した.なかでも初期に開業したペー族は,その多くが鶴慶壩子出身の漢族から技術を得ていた.現場の1つであったバスターミナルが、その拡張の際に、現場を追われたことで,ペー族の自動車修理工は,漢族の師傅(親方)から独立し,自ら経営をはじめ,その後,彼らは,同じペー族のものを自らの徒弟として雇い,現在にいたっている.
III 藏族居住地区(藏区)に向かうペー族徳欽県城の自動車修理業は,2005年から明らかに不況である.徳欽県城で店を構えるペー族は,現在のところ,他地方に移動をしていない.しかし,彼らの1人は,同じく藏区である四川省甘孜藏族自治州理塘(リタン)県城に移動することを真剣に模索していた.結局,彼は理塘まで市場調査まで行ったが,実現はしなかった.この他にも,徳欽県城で技術を学び,その後,漢族の多い臨滄市に出稼ぎに行くものの,2年で徳欽県城に戻ってきたものがいる.
IV まとめ以上のことから,ペー族は,最初の技術は漢族から習得した後,自らの民族の紐帯を利用して師弟関係を構築している.また,彼らが望みさえすれば,漢族と接触がより多い地域に出稼ぎが可能にもかかわらず,彼ら自身が,積極的に藏区を出稼ぎの対象としている.こうしてペー族が,漢族との接触を限定的にとどめ,自ら藏区に向かう行動は,漢族とやはり他者である藏族の間にあり,自らが「ペー族」であるという認識を,より強くすることになる.こうした行動は,これからも漢族との民族境界を維持し続けることに寄与するに違いない.