日本地理学会発表要旨集
2006年度日本地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の120件中1~50を表示しています
  • 北島 晴美, 沼尾 史久
    セッションID: 101
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    諏訪湖は長野県諏訪地域に位置する内水湖であり,諏訪地域のシンボル的な存在である。その水質は集水域の人間活動を反映して変遷してきた。1960から1970年代にかけて諏訪湖の水質汚濁は最も深刻な状況にあったが,1984年終末処理場の供用開始,公共下水道整備の進展により,水質が徐々に改善され,かつては40cm程度であった夏季の透明度が現在では100cmを超えるようになった。しかし,現在でも富栄養湖の状況は継続しており,諏訪湖の水質をさらに改善するための様々な方策が検討されている。
    終末処理場で生活排水,工場排水が処理されるようになったため,特定汚染源に対する対策は進み,現在では,農地,市街地などの非特定汚染源からの諏訪湖への汚濁負荷の方が,生活排水,工場排水の負荷よりも大きくなっている。
    諏訪湖の集水域には,諏訪湖沿岸域を含む岡谷市,諏訪市,下諏訪町のほか,茅野市,富士見町,原村の計6市町村が含まれ,これら全域を対象とする非特定汚染源対策が必要とされるが,集水域全域を対象とする浄化対策を検討する際には,住民の意向を尊重し,市町村の枠を超えた方策が必要となる。
    本研究の目的は,先ず,諏訪地域の住民アンケート調査により,そもそも住民はどのような諏訪湖を望んでいるのかを明らかにすることである。次に,CODなどの水質評価指標とは別に,住民は何によって諏訪湖の環境を評価しているのかを明らかにする。さらに,諏訪湖環境に対する住民の満足度を高めるための,今後の浄化施策の方向性を提言することを目指す。
    今回はアンケートの集計結果について発表する。

    2.研究方法
    アンケート調査は,諏訪地域6市町村の20歳以上の住民3019人を対象に,2006年2月上旬から中旬に郵送調査法により実施した。アンケート対象者は,各市町村の年齢階級毎に,人口比率に応じて対象数を決め,住民基本台帳から無作為抽出した。本アンケート調査「諏訪湖環境に関する住民意識調査」は,諏訪地域の6市町村と諏訪広域連合,信州大学山地水環境教育研究センターの共同で行なったものである。
    アンケートは,I.環境保全一般(4問),II.諏訪地域,諏訪湖浄化(11問),III.諏訪湖の浄化方法(4問),フェイスシート(4問)の4部から構成されている。

    3.アンケート集計結果と考察
    アンケート回収率は,43.6% (回収数1316)である。主な設問における上位回答項目の回答率(アンケート回収数 N=1316 に対する比率)は次のとおりである。

    「諏訪湖のどのような点に関心があるか(1位)」Q10
    水質(72.2%),イベント(16.7%),遊歩道整備(4.0%)
    内閣府が平成17年9月に実施した「環境問題に関する世論調査」(全国20歳以上3000人対象)と比較すると,諏訪地域では環境問題全般に対する関心・意識が高いが,これは,深刻な諏訪湖水質汚濁問題を抱えてきたことを反映していると考えられる。諏訪湖のどのような点に関心があるかでも,水質への関心が最も高い結果となった。
    「諏訪湖の景観について望むこと(1位)」Q11
    人工なぎさなどの水に親しめる空間が増えること(42.0%),湖岸に高層建築物が増えないこと(25.1%),湖付近で鳥が増えること(17.3%),遊歩道が整備されること(8.2%)
    コンクリート護岸から親水性のある湖畔への修復がなされてきたことに対して評価が高い。
    「諏訪湖の水質改善評価基準(1位)」Q12
    アオコの異常発生が減ること(40.0%),透明度があがること(38.4%),水質評価項目が改善されること(5.2%),ユスリカの異常発生が減ること(4.9%),気持ちよく泳げること(4.7%)
    諏訪湖環境に対する負のメージは,「アオコの異常発生」,「透明度の低さ」「ユスリカの異常発生」などによりもたらされたものであり,これらの改善が,諏訪湖の水質改善を最もアピールすると評価された。2番目に重要である項目の1位も,アオコの異常発生が減ること(34.8%)であり,「アオコの異常発生が減ること」は,水質改善をアピールする特別な評価基準といえよう。
    「有効であると考える諏訪湖の水質改善対策(1位)」Q17
    下水道の整備(35.2%),下水道の接続率を高める(21.3%),農地からの窒素・リンなどの流出を減らす(15.0%),浚渫(12.5%)
    1番重要な水質改善の対策には,従来型の下水道の整備,下水道への接続率の向上が挙げられたが,2番目に重要な対策としては,農地からの窒素・リンなどの流出を減らす(24.2%)が1位となり,非特定汚染源に対する関心も高いと考えられる。
  • 清水 裕太, 小寺 浩二, 五十嵐 誠, 中山 祐介
    セッションID: 102
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    I はじめに
     地下水中の硝酸性窒素等濃度の環境基準超過は、全国でも多くの事例があるが、その原因としては、農業による施肥、畜産業による家畜排せつ物、生活排水の3つの影響が大きいと考えられている(山本ら,1995)。法政大学では、かつてより日本各地の一級河川を対象に水環境調査を行って来た。2004年よりプロジェクトが組まれ都市圏の河川を集中的に調査を行った。(多摩川、鶴見川、相模川、荒川、房総半島など)2005年からは長崎県島原半島、阿武隈川、最上川、筑後川などを事例として、2006年は北海道の天塩川を中心に石狩川、十勝川など酪農業が盛んな大河川流域や、高度な輪作体制を組んだ農業が営まれる神奈川県三浦半島を集中的に調査している。今回はそれらの中で、特に硝酸性窒素による汚染が顕著な事例を取り上げ考察する。
    II 研究方法について
     現地観測では多項目水質測定計を使用し、pH,電気伝導度,DO,濁度,水温,TDS,気温等と、簡易水質測定によりCOD,NH4,NO3,NO2.PO4の5項目を現場で測定した。採取した試料はポリエチレンビンに入れ冷暗保存した。実験室に持ち帰った後、高速液体イオンクロマトグラフを用いて主要イオン成分を分析した。
    a) NO3 b) COD
    図1 長崎県島原半島のCOD,NO3平均値と標準偏差値
    図2 月例観測調査に表れた高硝酸濃度(福島県阿武隈川流域)
    III 結果・考察
     長崎県島原半島では,農畜産業が盛んであることや、生活排水処理率が低いことから、地下水中の硝酸性窒素等の濃度が高くなっている(図1)。上流域で多く分布する畜産排水と畜産廃棄物の埋め立て、それに今なお進行中である土地改良や、新規造成によって農地開拓が進むほど盛んな、農業の施肥による余剰窒素などが浅層地下水の汚染に多く寄与していると推察される。 一方で、阿武隈川上流域では、散在する農村からの生活排水による負荷削減のため農業集落排水施設を各集落に建造している。しかし、農集排の終末処理場からの処理水による負荷が大きくなり、個々の小さな負荷から大きな点源負荷へと変わる新たな問題が生じている(図2)。 関東を流下する荒川中流域では、ベッドタウンとして急増した団地群からの排水と、間に広がる農地による複合的汚染が生じており、多くの事例はこの類であろう。
    IV おわりに
     今回は日本各地で生じている硝酸性窒素汚染の一部の例を取りあげた。有名な地域だけの固有の問題ではなく、生活と密接に関わる問題であるため、警鐘を鳴らす意味でも、継続して水環境のモニタリングを行う必要がある。
    参考文献
     Rickert,D.A.他(1981):面的汚濁源による河川水質汚濁に及ぼす土地利用と流域自然特性の影響,下水道協会誌,18(205),pp66-68.
  • 飯田 貞夫, 江口 旻, 志村 聡, 大島 徹
    セッションID: 103
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1 研究の目的
     筆者らは,これまで,阿武隈川の水質について継続して研究を行った。『阿武隈川の水質特性(第1報)(2003年8月17日から20日)』では,阿武隈川は上流から下流に向かって盆地と渓谷が交互に見られる河川で,盆地内で汚染された河川水が,渓谷の自浄作用によってきれいになることが分かった。『阿武隈川の水質特性(第2報)(2004年8月1日から4日)』では,高水位(豪雨時)と低水位(平常時)の水質特性について比較検討を行った。 今回は,阿武隈川の右岸と左岸の支流の水質について調査研究を行った。阿武隈川流域の地形は,右岸には阿武隈高地,左岸は奥羽山脈と那須火山帯がある。地質的には,阿武隈高地(右岸)には,花崗岩,片麻岩,石灰岩,結晶片岩類が分布する。奥羽山脈と那須火山帯(左岸)には,安山岩類と火山砕屑物が見られ,火山帯であるため温泉がある。これらの地形・地質の水環境が支流の河川にどのように影響するかについて調べた。 調査期間は,2005年8月19日から22日の4日間である。なお,調査期間中に調査に影響するような降雨はなかった。

    2 水質の概要pH
     本流のpHは,7.0から7.4の間にある。No.16の7.2,No.23の7.4,No.31の7.0と,中性から弱アルカリ性を示している。温泉水が流入している左岸の支流の松川,荒川,須川は,3.4から5.0を示し,No.3の5.4,No.5の3.4,No.12の4.8,No.13の4.9,No.15の5.0と,酸性である。 しかし,右岸側の石灰岩地域を流下する支流は7.2から8.4を示している。No.18の7.6,No.19の8.4,No.20の7.2,No.25の7.2,No.26の7.4,No.28の7.6と,アルカリ性の傾向が見られる。Ca2+ 本流のCa2+は,2.5から6.2ppmの間で変化している。しかし,右岸側の支流では,3.7から12.5ppmと,比較的高い数値を示している。EC 本流のECは,138から158μs/cmの間で変化している。一方,支流のECは,右岸側が117から363μs/cm,左岸側は,59.6から891.2μs/cmの間で変化しており,右岸側のNo.21で363μs/cm,No.18で292μs/cm,左岸側のNo.11で891.2μs/cm,No.5で361μs/cmと高い数値を示している。 他の項目については,学会当日に報告する。
  • 高村 弘毅, 小玉 浩
    セッションID: 104
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.降雨・地下浸透蒸発観測システムの概要
     この装置は、降雨による雨水の蒸発量、浸透量を計るライシメータおよび気象観測システムで構成されている。
     立正大学熊谷キャンパス内林地に、縦2.5m、横1.2m、深さ1.6mの穴を掘り、そこにステンレス製のライシメータカラム(1m×1m×1.4m)を電子天秤上に設置し、現場の関東ローム層土壌を充填した。電子天秤の最大計量可能重量は3000kgで、分解能(最小目盛り)は降水量1mmに相当する1kgである。ライシメータの表面積が1mであるので、1kgの重量減少は、カラムの底からの排水がみられない場合蒸発高は1mmとなる。
    ライシメータカラムには、上部より200mm間隔に、水分センサー(TDR)、地温センサー(サーミスタ)、EC(電気伝導度)センサー、pHセンサーの4種類、各6本を挿入した。ライシメータカラムの底には浸透量観測用として、内径20mmのパイプの中心が底より40mmの位置に横向きに取り付けてある。 気象観測システムは、2.5mのポールに、風向・風速計、純放射計、温度計、湿度計、雨量計が取り付けてある。上記の各種データをデータロガにより任意の時間間隔でデータを記録することができる。解析に用いたデータは1時間間隔である。
    2.観測結果
     2004年3月30日午後4時から31日午前3時までに降った計34mmの雨について、ライシメータカラム内の土壌水分の変化をみると、深度の浅いところから変化し、深度120cmではほとんど変化が認められなかった。pHは、深度40cmではpH6.4から6.8の間で変化。深度80cmではpH7.4前後を示し、各深度のなかで最も高かった。深度100cmではpH6.4から6.8の間で変化し、深度120cmではpH6.0前後で変化した。電気伝導度も深度80cmが最も高くなっており、この深度に水質の変換点が存在している。地温は、深度の深いところが低く、深度の浅いところが高くなっている。また深度20cmでは、地温の日変化がみられる。深いところでは、上昇傾向ではあるが、顕著な日変化はみられない。
     台風接近による大雨時の観測データの分析結果について述べる。2004年10月8日午前11時から9日午後7時までの降雨191.5mm(台風22号)と、2004年10月19日午前11時から21日午前7時までの降雨121.5mm(台風23号)について解析した。電気伝導度は、深度60cm以外、雨量が増えると増加し、その後減少、ある一定以上の雨量になると変化がなくなり約100μS/cmに集まる。台風22号では降り始めからの降水量が115.5mmに達した時点で、台風23号では降り始めからの降水量が117.0mmに達した時点で集束状態みられる。深度100cmのみ電気伝導度がやや低い傾向にあった。
     地温についてみると、台風22号と23号接近時ではかなり違う傾向を示した。台風22号接近時では、地温は日射が遮られるとともに減少し、降雨が止むと上昇に転じた。深度20cmでは、興味深い温度変化があらわれている。降雨強度が時間あたり10mmを超えると、減温傾向から反転し一時的に上昇する。台風23号接近時は、全体として増加傾向を示すが、深度20cmでは降雨強度の増加とともに急激に温度が上昇した。それ以外の深度では降雨にはあまり関係なく一定の増加率で温度が上昇した。
     土壌水分の変化は、台風22・23号接近時とも類似の傾向を示した。深度が浅いところほど速く、また変化率も浅いところほど降雨に速やかに反応する傾向にあった。しかし、深度80cmと100cmの観測値に着目すると、反応の早さ、変化率の激しさが深度順とは逆転する現象がみられた。
     本研究は、立正大学大学院地球環境科学研究科オープンリサーチセンター(ORC)「プロジェクト3『環境共生手法による地下水再生に関する研究』」の一環として実施したものである。
  • 野上 道男
    セッションID: 105
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    研究の目的と問題の所在:
     未来の地形を予測することは地形学の最終目標である.過去を調べるのも現在を知り、未来を予知するためであろう.地球気候モデルが50年後、100年後の気候をシミュレーションによって予測しようとしているように、ここでは10万年後の地形を予知するという目標を立てた.これまでに蓄積された地形学の知識は数式あるいはロジックで表現されているというわけではないので、いろいろ困難は多いが、比較的知識の蓄積が多い過去10万年を目標とした.さらに単なる形態模写ではなく、物質の移動に基礎をおくシミュレーションを目指すことにした.シミュレーションに必要なのは地形変化現象の数値モデル化、モデルとは独立な初期条件・境界条件、およびモデルの中で使われるパラメータの値である.このパラメータは位置が持つ属性やその時間変化として具体的に、その値が与えられる必要がある.

    初期条件:
     筑波山および周辺地区の10m-DEM(北海道地図作成)から一辺10mの正六角形DEMを作って使用した.筑波山を200m水没させて架空の島とし、初期条件とした.海面低下時に陸上と同じ詳細な地形データが必要なためである.

    境界条件:
     海面変化(気候変化)、地殻運動、火山灰降下を境界条件とした.いうまでもなく海面変化および気候変化は局地的な地形発達とは独立であり、過去10万年の変化がもう一度繰り返されるとした.これはかなり蓋然性の高い仮定であると考えている.一般に地殻運動は段丘形成・分布に大きな影響があることが知られているので、その効果を見るために、間欠的ではあるが長期的には定速な傾動運動を与えてみた.火山灰の降下はこのシミュレーションには必須ではないが、地形面の年代確定のために、間欠的に起こるとした.
     地形変化現象のモデリングとパラメータ: 斜面では拡散モデルで表現される従順化と間欠的かつ確率的な斜面崩壊があるとした.河川では河床礫の摩耗を伴う拡散現象としての砂礫セディメント移動と間欠的に起こる洪水による移動があるとした.海岸付近では波の方向と離岸流の方向、波食限界深などを仮定した.また海食崖の後退については、受食される海食崖の高さ・崖前面の水深の限界などに仮値を与えた.離岸流による物質移動については深さに反比例する拡散係数を持つ拡散現象であるとした.
     なお陸上の拡散現象にかかわる拡散係数は岩相と気候で変わるものとした.岩相は基盤岩と軟弱層堆積物に2分し、気候は氷期と間氷期の2時期に分けそれぞれ異なる値を与えた.斜面および河川の堆積物については、現実地形についての計測値を取り入れた.間欠的に起こる現象については台風や梅雨の集中豪雨の頻度を参考に妥当な値を与えた.

    シミュレーションの実施:
     このシミュレーションでは質量保存則は厳重に守っているので、物質移動によってのみ地形変化(高度変化)が起こるという地形学の大原則は満たされている.そこで、斜面から河川・海へ領域を越えて移動する砂礫フラックス、および河川から海に移動するフラックスを集計してモニタリングした.これらの量は陸地の平均浸食深(速度)そのものである.また拡散係数が基盤岩と堆積物で大幅に変わることから、斜面および河床における基盤岩露出率もモニタリングした.
     斜面および河川における拡散現象については計算を毎年行うことにし、それに先立ち落水線の探査と流域面積の計算を行い、斜面・河川・海岸の3領域を設定した.隔年発生現象については該当年に達したとき、その現象を記述する関数を呼び、それによる地形変化を計算し、500年ごとにそのときの地形、陰影図などを出力させた.

    結果:
     陰影図は201枚となるので、これを動画化して10万年間の地形変化を観察した.時間を短縮して、普段は「動かざる大地」を変化するものとして観察するメリットは大きい.もちろん、シミュレーションプログラム開発の過程で、この観察に基づいて、地形学的に許せない変化が起きていないかなどを観察しながら、試行錯誤的にアルゴリズムやパラメータを修正してきた.最終的には不自然なフラックス調整は必要なかった.
  • 動的平衡状態は出現するか?
    大内 俊二
    セッションID: 106
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    山地地形に代表される侵食地形は、その発達過程を知る手がかりが乏しく、過去には地形学の主要なテーマだったことがあるにもかかわらず、現在でも理解が進んでいるとは言いがたい。最近ではコンピューターシミュレーションによる侵食地形発達の研究も盛んになってきたが、基礎となるデータが乏しいことには変わりない。発表者がこれまで行ってきた隆起を伴う降雨侵食実験は、実際の地形とはスケールが大きく異なるが、地球上で実際に起こり得る現象による時間的変化を示しており、手がかりの乏しい侵食地形の発達を明らかにする上で有用な知見をもたらす可能性がある。今回はこのような降雨侵食実験の中から、長時間にわたる人工降雨による侵食地形の発達に比較的ゆっくりとした隆起と与えた実験の結果を報告し、特に隆起と侵食の間に動的平衡状態が出現するかどうかについて考察を加える。
     地下に埋設した隆起装置の上に、上面90x90cm(測定範囲は76x76cm)、地上高約12cm(地下約10cm)の四角い砂山を細砂とカオリナイトの混合物で形成し、これに農業用の潅水チューブから細かい人工雨を降らせて微小な侵食地形を作り出した。十分侵食が進み起伏の小さな形態が発達した255時間後から、隆起装置によって砂山全体をゆっくり隆起させ、1,759時間まで隆起をともなう微小侵食地形の発達過程を観測・計測した。ここでは、隆起速度の異なる2回の実験と比較のために行った隆起を伴わない実験を報告する。
     隆起がない場合、谷の急速な下刻と谷系の発達とともに、平均高度がほぼ指数関数的な低下を示す。砂山周りの扇状地の発達が終わり、開析されるようになるあたりから、主要谷の谷底高度を示す最低点高度の低下とともに平均高度も若干低下を速める。実験後半には、平均高度の低下は明らかに減速し、近似指数曲線に従わない直線的な低下を示すようになる。これは流域が一つの大きな流域に統一されて後地形が安定したことを反映していると考えられる。隆起は砂山周りの扇状地の発達を促す働きがあるようで、3時間に約0.1mmの割合で隆起を起こした場合、扇状地の開析開始が大幅に遅れた。隆起開始後、平均高度はゆっくりした低下を示すが、隆起量を差し引くと、隆起開始後しばらくは隆起のない場合と同様の指数関数的な低下となる。その後は近似曲線を離れ、隆起分+αの侵食があったことを示す直線的な低下を見せる。流域の統一が起こり、扇状地の開析が始まると、平均高度の低下が少し加速される。最低点高度の低下が起こり、最高点高度が明確な低下を見せないため、全体としての起伏は増加する。隆起のない場合より扇状地が高く発達するため、侵食が少し加速されたのではないだろうか。尾根部がやせて細かな谷がなくなり、より平滑な様相を呈するようになる。全体としての起伏の増加に伴う平均高度の低下はこのような地形変化を表していると思われる。砂山の隆起は、結局は侵食過程にはあまり大きな影響を与えず、侵食量が隆起量を上回った分だけ平均高度の低下が起こったのではないだろうか。3時間に約0.2mmの隆起の場合は、隆起開始後は平均高度の変化が少なく、ほぼ一定の高度で推移した。平均高度から隆起量を差し引くと、隆起開始直後の指数関数的な低下に従う部分は比較的短く、隆起に対応した直線的な低下が長く続く。扇状地の発達はさらに持続し、流域の統一とそれに伴う扇状地の開析も最後まで明確にならなかった。最高点高度は隆起とともに緩やかに上昇し、最低点高度も若干の上昇を見せ、全体としての起伏は若干ではあるが増加する。この実験では、平均高度がほぼ一定の高度を保ったことから、隆起と侵食がつりあった動的平衡状態が出現したと考えることも可能である。しかし、隆起速度の小さな実験の結果と合わせると、隆起が傾斜を増大させて侵食を加速し、その結果として動的平衡状態が出現したと考えるより、この実験設定における侵食速度と今回の隆起速度がたまたま一致したことによって偽平衡状態のようなものが出現したと考えたほうが理解しやすい。さらに、この偽平衡状態においても、全体としての起伏の増大、尾根部の縮小と地形の平滑化、などが見られ、たとえ平均高度の変化がなくても地形の変化があり得ることを示している。隆起と侵食の間に地形的平衡状態が出現するとは考えにくいようである。
  • 黒木 貴一, 磯 望, 後藤 健介
    セッションID: 107
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    福岡県太宰府市を中心とする約150km2を研究対象地域とし、LANDSAT/TMの差分データを利用し山地・丘陵地の斜面の地形区分を試みた。複数時期(2001年(4/19,5/13,9/18,10/20)と2002年(2/25))のLANDSAT/TMデータを使用した。各時期の反射率データは、4月の平均値との差分が0となる加減算を行なった。反射率差分はバンド(1,3,4,6)とndvi(植物活性度)の2月-10月(冬期)、4月-2月(春期)、5月-4月(初夏)、 9月-2月(夏冬)、10月-4月(秋春)に対して求めた。 ndvi差分の3D画像を観察すると、三郡山(標高30mから936m)で標高差によるndvi差分の相違が5月-4月と9月-2月などに認められる。斜面方位によるndvi差分の相違が明瞭で、時期により北向き斜面と南向き斜面の差分に相違が出る。また、時期により谷と尾根の差分にも相違が出る。地形とndvi差分に関して測線ごと見ると、標高の低い測線では4月-2月に「尾根で高く、谷で低い」。逆に標高の高い測線では4月-2月に「尾根で低く、谷で高い」。東西方向の尾根筋を切る測線では10月-4月に「日向斜面で高く、日影斜面で低い」。標高の高い測線では4月-2月、5月-4月、9月-2月に「標高500mを境にndvi差分の分布が変化する」。これより標高、ndvi値凹凸、ndvi値18以上未満によるndvi値区分を行なった。これらの解析にはArcView8.3と同9.1を使用した。標高、凹凸、傾斜方向による地形区分を実施し、ndvi値区分と比較した。ndvi値区分は平地の市街地を除くと、山地・丘陵地の地形区分と良く合った。つまりndviの時期間データを適宜用いて地形区分ができた。今後は、より詳細な人工衛星データと数値地形データを用いて、斜面崩壊予測のための斜面地形区分を試みたい。
  • 瀬戸 真之, 石田 武, 松本 太, 宮下 香織, 田村 俊和
    セッションID: 108
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    I.はじめに
     郡山・猪苗代両盆地の分水界に位置する御霊櫃峠(海抜約900m)には一種のpatterned groundが発達し(鈴木ほか 1985),その微地形・構成物質等の特徴(基岩の岩質に強く影響された扁平角礫から成る植被階状礫縞)については既に報告した(田村ほか 2004).既報地の南西に隣接する西向き斜面にも,下端部が縞状土(礫縞)的になる岩礫露出地が広がっている.2004年晩秋から2005年春季,2005年晩秋から2005年春季にかけて,この場所に8本のペンキラインを設置して礫の移動状況を調べると同時に,それぞれ4地点で気温と地温の連続観測を実施した.また,2005年11月に風速を観測した.これらの調査から,このような低標高地に裸地が分布し,地表面の凍結・融解による物質移動・微地形形成が行われるしくみについて考察した.
    II.表層物質の移動
     岩礫露出地の表層に20cm以下の厚さで長径10から20cmの扁平礫が腐植土層を覆ってオープンワークに堆積している.本研究では表層物質の移動を把握するため,斜面上部の緩傾斜部や傾斜変換線に沿うように8本のペンキラインを設置した.ペンキラインは斜面の最大傾斜方向に対し直角に設置した.ペンキラインによる表層物質の移動観測は2004年11月8日から2005年6月18日および2005年11月5日から2006年5月1日の期間にそれぞれ行った.移動後のペンキラインはトータルステーションを用いて再測量した.この結果,いずれの観測期間でも,すべてのペンキラインで礫が斜面下方へ移動した区間が認められた(図1).この区間での最大移動量は2004年冬で約50cm,2006年冬は約100cmであった.ただし,2004年冬の観測ではペンキを塗った礫の中には斜面上方へ移動したものが若干認められた.この原因には歩行等による攪乱と強風による移動が考えられる.
    III.気温および地温の観測
     気温・地温の観測には,(株)T&D製 RTR-52を使用した.GRB1からGRB4は気温観測,GRB5からGRB8は地温観測に用いた.気温は地表約1mの高さにT字型の塩ビ管を固定し,この内部にセンサを設置して観測した.地温の観測は深度5cmの土壌中に位置にセンサを埋設して行った.観測の間隔は気温,地温ともに2004年冬が20分,2005年は30分である.また,本発表で使用するデータの観測期間はペンキラインの観測期間と同様である.気温の観測結果は4地点での平均値は2回の観測期間を通じて-2.1℃(2005年冬季;GRB4)から1℃(2004年冬季;GRB3),最高値は28.8℃(2005年4月;GRB2),最低値は-12.8℃(2006年2月;GRB4)であった.凍結指数は風向斜面で440.6℃・days(2005年冬季;GRB1)であった.また,年周期,日周期の凍結・融解サイクルが認められた.地温の観測結果は2回の観測期間を通じて平均値で-0.8℃(2005年冬季;GRB7)から3℃(2004年冬季;GRB8),最高値は25.9℃(2004年冬季;GRB5),最低値は-9.3℃(2004年冬季;GRB5)であった.図2にGRB6で観測した2005年冬季の地温を示す.GRB6の観測結果から2005年冬季も2004年冬季とほぼ同様の温度変化をしていたことが認められる.また,GRB5では2005年1月15日から4月3日まで0℃から0.5℃の間で温度が推移し,日較差が認められない期間が存在する.この期間は地表面が雪に覆われていたと考えられる.同様の期間は2005年冬季のGRB6にも認められるが,日較差が小さいもののより低温な状態に変化する傾向がある(図2).地温の観測でも気温と同様に日周期と年周期の凍結・融解サイクルが認められた.
    IV.風速の観測
     前述した温度環境は冬季の強風により雪が吹き払われ,地表面が露出することで出現していると推定した.そこで予備的な観測として2004年11月と2005年11月に風速を観測した.御霊櫃峠北側の小ピーク上で風速を観測した.観測期間は2004年11月6から7日,2005年11月4日から5日の2回である.観測にはマイクロアネモメーターを使用し,2分観測後3分待機というサイクルを1時間繰り返した.この1時間の観測を6時間おきに行った.この結果,2分間の平均風速は2.8m/sから16.0m/sの観測結果を得た(図3).瞬間風速ではさらに強い風が吹いていると思われる.
    V.考察
     ペンキラインの観測から地表面の礫は冬季に斜面下方へ移動している区間があることが明らかになった.温度環境をみると,今回の観測地には気温・地温ともに日周期の凍結・融解サイクルが認められる.礫の移動が面的であることや,温度観測の結果から,表流水による礫の移動ではなく周氷河性の物質移動であることが強く示唆される.礫の移動がソリフラクションによるならば,この時期に移動したことが推定される.風速の観測結果から冬季には強い風で雪が吹き払われ,このために地表面が直接大気にさらされることで冬季には厳しい温度変化にさらされていることが推定される.
  • 尾方 隆幸
    セッションID: 109
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    北海道をはじめとする日本の寒冷地域には,内部に凍結核を持たない小規模なマウンド状微地形がみられ,植生や土壌によって谷地坊主と十勝坊主とに区別されている.いずれも季節凍土の形成に関連した構造土の一種とされるが(山田 1959,日本土壌肥料学雑誌,30),『地形学辞典』(二宮書店)によれば,十勝坊主はアースハンモックと同種,谷地坊主はアースハンモックとは異種の微地形とされる.しかし,両者が混在する湿原や,両者の分布域が隣接する湿原もあり,どちらとも判別し難い紛らわしいものが認められることもある.
    小規模凍結マウンド(ハンモック)の分類や用語をめぐっては,国際的にもしばしば議論になる.この微地形は,一般に”earth hummocks”,”thufur”,”pounus”と呼ばれることが多いが,これら3つの用語が同義か否かについては,研究者によって見解の相違がある.さらに,”peat hummocks”をはじめとするその他の用語も頻繁に使用され,それぞれの定義は研究者によって異なる.
    こうした用語の氾濫は,ハンモックの形成プロセスが,永久凍土の有無,温度条件,水分条件,堆積物,植生の違いを反映し,極めて多種多様であることに起因するとの指摘がある.地形学的な用語は,形成プロセスが同質か異質かを判定した上で決定されなければならない.つまり,形成プロセスがよくわかっていない地形に対して用いられる用語は,仮のものとみなされるべきであろう.
    日本の谷地坊主と十勝坊主についても,その形成プロセスには不明な点が多い.この両者が地形学的に明瞭に分けられるか否かは,それぞれの形成プロセスを解明するまでは決めるべきではない.もちろん,海外でみられる類似の微地形のどれに対応するのかも,現段階では判定できない.『地形学辞典』の「十勝坊主 = アースハンモック」という解釈にも,アースハンモックの定義に統一見解がない上,「季節凍土地域の小規模凍結マウンドをアースハンモックと呼ぶべきではない」とする立場もある以上,再検討の余地があるといえよう.
  • 小元 久仁夫, 伊藤 佑始
    セッションID: 110
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.研究目的
     ビーチロックは、主に熱帯から亜熱帯域の海岸でみられる地形であるが、まれに温帯域でもみられる。日本では、能登半島や九州西岸などに温帯性ビーチロックの存在が確認されている。なかでも長崎県「脇岬のビーチロック」は面積24,000m2で最大規模であり、県の天然記念物に指定されている。このビーチロックについては、西村(1970)が存在を報告し、寺田・松田(2001)が構成物質の分析と、δ13Cおよびδ18Oの測定を行った。しかしその形成年代についてはまだ報告されていない。またビーチロックは走行傾斜の異なる3層が交差しており、その発達過程は複雑である。本発表では、2005年8月に行った調査結果について報告する。
    2.研究方法
     (1)現地調査の際にビーチロックの断面測量や走行傾斜の測定を行う。(2)各層から14C年代測定試料を採取し、β法による年代測定とMicromass社のIsoPrimeによりδ13Cを測定する。(3)14C年代をδ13Cにより補正し、CALIB 5.0.1により暦年代に較正する。(4)δ13Cからビーチロックの成因に関わる炭酸カルシウムの循環について検討する。(5)ビーチロックの特徴と試料の年代から「脇岬ビーチロック」の発達過程を考察する。
    3.研究成果
     (1)ビーチロックは中潮位から低潮位にあり、A層からE層に区分できる。A・B・C層は走行傾斜が交差し、E層は沖合に発達する。(2)ビーチロックは通常海側に傾斜しているものが多いが、A・B・D層は内陸側に傾いている。(3)ビーチロック試料のδ13Cは1.3‰から3.4‰の範囲にある。(4)ビーチロック試料の年代は、約5600 cal BPから約560 cal BPの範囲にある。(5)C層(海側)とE層は、約5500から4500 cal BPに形成され、砂州を形成していた。(6)交差するA・B・C(陸側)の3層は約1900から1400 cal BP、D層は約600 cal BPに形成され、その背後には砂州が発達していた。(7)長崎半島南部の海水準は、約5600年前以降、現在とほとんど変わらない。
  • 若林 徹, 須貝 俊彦, 大上 隆史, 松島 紘子, 笹尾 英嗣
    セッションID: 111
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    【目的】濃尾平野は日本を代表する沖積低地の一つであり、西側の養老断層の活動に伴って約1m / kyrの大きな速度で沈降しており(須貝・杉山、1999)、河川による活発な土砂供給に伴い、平野の堆積物は過去の環境変動を高い時間分解能で記録していると考えられる。しかし、沖積平野の堆積物の化学組成変化を地形発達との関連に基づいて述べた研究はほとんどない。本研究では、層準間での化学組成を比較することで、詳細な堆積環境の変遷を明らかにすることを試みた。対象元素は、主要化学元素であるナトリウム、マグネシウム、アルミニウム、ケイ素、硫黄、カリウム、カルシウム、チタン、マンガン、鉄とした。
    【方法】対象試料は、愛知県海津市で掘削されたKZN コア(大上ほか、2004、標高0.69m、掘削長47m)を用いた。本コアの深さ方向に1m間隔で、層厚5cm の部分を採取した。合計試料数は45 サンプルである。主要化学元素は、常法に従い、エネルギー分散型蛍光X 線分析装置(RaynyEDX-700HS, SHIMADZU)を用いて、X線強度を測定後、検量線法で定量した。TOC、TN、粒径の各分析結果は大上(2005MS)による。また、堆積物の14C年代測定(計36サンプル)は、日本原子力研究開発機構による。
    【結果と考察】コア観察、山口ほか(2003)による堆積相記載、14C 年代測定の結果、深度47.00~45.50m は沖積基底礫層(BG、河川成堆積物)、45.50~34.00mは下部泥砂層(LS/ M、溺れ谷堆積物、~約9, 700 cal yr BP)、34.00~15.55mは中部泥層(MM、プロデルタ堆積物、約9, 700~3,100 cal yrBP)、15.55~4.50mは上部砂層(US、デルタフロント堆積物、約3, 100~1, 300 cal yr BP)、4.50~1.20mは最上部層(TS/ M、チャネル、河川氾濫堆積物、約1, 300cal yr BP~)、1.20mから上は埋土に区分される。柱状図と、Al2O3、Fe2O3、TS、Mud contentsの鉛直変化と共に、ユニット区分図をFigure.1 に示した。コアを、LM、LS、MM、US2、US1、TM、TSの7 つのユニットに区分し、ユニットごとの元素含有率の平均値を示した(Table. 1)。各ユニット内においても各元素の含有率は変動しているものの、大局的には、砂層(LS、US12、TS)に多いもの(Na)、泥層(LM、MM、US1、TM)に多いもの(Mg、Al、Ti、Fe、C、N)、ほとんど差が見られないもの(K)に分けることができた。山本ほか(2005)によると、粒径が小さい粒子の占める割合が高いほど総表面積が大きくなるので、重金属を吸着しやすく、有機物量も多いとされている。本研究においても泥層と砂層を比較した場合に、前者において、重金属元素、有機物の堆積量が多く、各層準間での比較の結果、MMにおいてMgO、Fe2O3の堆積が見られた。山本ほか(2005)によると、海水中の重金属は濃度変動の要因が多く、その濃度レベルも低いが、底質には高濃度に蓄積される場合が多いとされている。MMはプロデルタ堆積物であり、本研究においても他の層準に比較して相対的に、MgやFeといった重金属元素が高濃度で堆積したと考えられた。また、LS/ M、USに比較して、MMにおけるAl2O3、Fe2O3、Sなどの鉛直変化は小さく、約9, 700~3,100 cal yr BP の堆積期間を通じて、プロデルタの堆積環境は長期的に非常に安定していたと考えられる。次に、特にUS2 で高いTS濃度が見られた。吉田ほか(2006)によると、S濃度は堆積物が淡水域か海成かを識別する指標として用いられており、一般に、淡水成堆積物では0.3%未満、海成堆積物では0.3%以上を示すとされている。US2 は海成のデルタ堆積物であり、本研究でも海成堆積物であるUS2 において高いS濃度を示したと考えられた。また、LM、TMにおいて、Mud contents(%)が高い場合にAl やFe といった元素の堆積が多くなるに対して、S濃度は高くならないことから、吉田ほか(2006)などで従来言われてきているSのコア中の存在形態は、Pyrite(FeS2)以外にも考えられ、存在形態の検討が今後の課題となってくると考えられる。
    【引用文献】須貝・杉山 (1999)地質調査所速報, EQ. 99 / 3, 69 - 76
    大上ほか(2004)地理学会要旨, 65, 85
    大上(2005MS)東大新領域環境学, 修士論文, 49P
    山口ほか(2003) 第四紀研究, 42, 335 - 346
    山本ほか(2005)三陸の海と生物, サイエンティスト社, 2005, 179 - 195
    吉田ほか(2006)地質学論集, 59, 93 - 109
  • 鈴木 毅彦, 村田 昌則, 大石 雅之, 山崎 晴雄, 中山 俊雄, 川島 眞一, 川合 将文
    セッションID: 112
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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     東京西部の武蔵野台地を北西-南東方向に21km延びる立川断層は,将来東京西部において直下型地震を起こす可能性を持つことからその活動が注目されている活断層である.第四紀後期における立川断層の活動は,北東側隆起,最大平均変位速度0.36m/103年,単位変位量約1.8m,発生する地震のマグニチュード約7.1,再来周期が約5,000年であると推定されている(山崎,1978).その最新活動期は東京都(2000)により1,900?1,500年前とされていたが,最近になり14,000?7,300年前(宮下ほか,2005)という異なる見解が出されている. 一方,立川断層の長期におよぶ活動については,16Maの日本海開裂頃には北東側沈降の正断層であり現在と異なる変位様式をもっていたことや,北東側隆起の逆断層である現在の変位様式は2Ma以降,おそらく中期更新世に開始ないしは活動度の加速があったと考えられている(山崎,2006).この様に立川断層の長期的活動については若干の議論があるが,その実体は充分に明らかにされていない.詳細を明らかにするには,立川断層沿いの武蔵野台地西部地下や狭山丘陵において断層変位を受けた堆積物の詳細を明らかにする必要がある.今回,旧東京都土木技術研究所(現,東京都土木技術センター)が掘削したコアの再調査と狭山丘陵における野外調査を行ない,テフラの認定とそれに基づく堆積物の年代を再検討し,立川断層の長期的な活動史を考察した. 検討したコアは,武蔵野台地西部,武蔵村山市三ツ木地区において1998年に採取された立川断層を挟む深度115mの 2本のボーリングコア(MTB1とMTB2とする)(東京都,1999)と両地点のほぼ中間で採取された深度703.4mの武蔵村山コア(川島・川合,1980)である.これらコアに基づくと,地下地質は上位から関東ローム層,立川面構成礫層,下総・相模層群相当礫層,礫・砂・シルト・泥炭などの互層からなる仏子層相当層ないしは上総層群相当層である.堆積物中に含まれるテフラとして,断層南西側のMTB1コアから29枚のテフラ(上位からMTB1-1,MTB1-2...とする.他のコアも同様),北東側のMTB2コアから30枚のテフラ,中間の武蔵村山コアから39枚のテフラが検出された. これらテフラの記載岩石学的特性から,MTB1-22とMM-12は近傍の狭山丘陵で見出されている狭山ガラス質テフラ層(SYG;正田ほか,2005,1.7Ma),MTB1-26は恵比須峠福田テフラ(Ebs-Fkd;1.70Ma),MM-18は上総層群黄和田層のKd44,MTB2-26は上総層群大原層のHSC,すなわち東北仙岩地熱地域を給源とする玉川R4テフラ(Tmg-R4;鈴木・中山,2006;2.0Ma)に対比できる.また,武蔵村山コアで検出されたMM-21.1,-22,-24の3枚組のテフラが北東側MTB2コアと狭山丘陵西端部の箱根ヶ崎の地表部で見出された. 以上のテフラ認定に基づくと,約2Ma降下堆積したMM-21.1,-22,-24テフラとその前後の堆積物には,MTB2コアと武蔵村山コアの間で北東側約100mの隆起を示唆する変位が認められる.また,武蔵村山コアとMTB1コアの間では1.7MaのSYG北東側へ約20m隆起する変位が認められる.武蔵村山コアの掘削地点はほぼ撓曲崖上に位置し,他の2本は撓曲崖を挟むように位置する.これらのことから,立川断層の三ツ木付近における過去200万年間の累積変位量は120m程度と見積もられ,これまでの推定量(山崎,1978,2006)と大きくは異ならない.
  • 宇根 寛, 佐藤 浩, 飛田 幹男
    セッションID: 113
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    2005年パキスタン北部地震では多数の斜面崩壊が発生した。SPOT5衛星画像を用いて斜面崩壊を判読し、分布図を作成した。その結果、Kumahara and Nakata (2006)のBalakot-Garhi断層の上盤側で斜面崩壊が多発しており、その約半数が断層から2 km以内で発生していた。Balakot-Garhi断層の上盤側4kmの範囲に発生した大規模な斜面崩壊について、斜面の方位をSRTM数値標高データから計算し、8方位に分類した結果、そのほとんどが南西または南に向いていることが分かった。この範囲の一般斜面の方位分布と比較すると、斜面崩壊が南西から南を向いた斜面に選択的に発生したことは明らかである。また、SARデータを用いて明らかにされた地表の地殻変動の水平成分は、Balakot-Garhi断層の上盤側では、南から南西方向となっており、斜面崩壊の卓越方位ときわめてよく一致する。このことは、斜面崩壊が、地表がまさに「動く」ことにより発生したことを示唆している。
  • 林 香織, 春山 成子
    セッションID: 114
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1. はじめに
     2004年インドネシア西部、スマトラ島沖巨大地震(M9.0)に伴い発生した大津波はインドネシアアチェ州、スリランカ、インド、タイ、マレーシアなどインド洋沿岸諸国で30万人を超える死者と150万人の避難者をもたらす近年最悪の大災害となった。スマトラ島沖津波災害について、タイ国を対象とした報告は多数ある。例えば、松山ほか(2005)による津波の数値計算、柳澤ほか(2005)による浸水計算、後藤ほか(2006)による堆積物調査、田中ほか(2005)による津波防御に関する植生の役割などである。また、海津ほか(2005)では、上陸した津波の陸上での挙動を明らかにする際の低地の地形への議論の必要性も問われている。すでにタイ国北部アンダマン海沿岸Nam Khem平野では、地形の特徴が把握され、津波の流動と地形との関係について論じられているが、Khaolakの次に大きな津波災害を被り、多くの犠牲者がもたらされたPhuket島において、沿岸低地の微地形との対応関係まで議論された先行研究はない。
    2. 本研究の目的
     本稿では、Phuket沿岸域の微地形特性、およびそれらを人工的に改変した地域の分布を把握する。そして、津波の陸上での挙動と低地地形との関係を考察する。
    3. 研究手法
    3-1 海岸微地形の把握
     Phuket島アンダマン海沿岸域の微地形把握には、2002年7月19日撮影の2万分の1モノクロ航空写真の実体視を主な手法とした。実体視に加えて、2005/8/24 - 2005/9/7に汀線を基点(0m)として沿岸地域のレベル測量(Laser Ace300による)を行い、これを踏まえながら微地形の実態を明らかにした。
    3-2 被災状況の把握
     既往データの収集、および現地調査で行ったヒアリングや痕跡確認より得たデータを使用した。
    4. 結果
     各ビーチには完新世にできたと思われる段丘面が2段(高位、低位)見られ、それよりも比高が高く、急斜面を有するものは、山地・丘陵面とした。内陸部では谷底低地が形成されており、丘陵を刻む幅の狭い谷口の部分には沖積錐と考えられる緩い半円錐形の地形を認めることができた。海岸平野に分布する主な地形種は、浜堤列(および古浜堤)と潟湖跡地である。浜堤と浜堤の間の凹地は堤間湿地とした。潟湖跡地は、ラグーンがそのまま残っていたり、水田に利用されたりしている。人工改変地に関しては、潟湖跡地や湿地などの軟弱地盤を固めた地域を盛土、山地や段丘面を切り開いた地形を切土と分類した。
  • 阿部 亮吾
    セッションID: 115
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.はじめに
     東京都区部の山手台地では、戦後の住宅地の急増により都市型水害が発生するようになった。加えて、最近30年間において50mm/hを超えるような豪雨が増加傾向にあり、予想をはるかに超えるような水害が発生している。山手台地を流れる神田川流域や石神井川流域では、1960年代から都市型水害に対する研究が行われ、様々な水害対策も行われてきた。しかし、いずれの流域でも、流域全体を対象とした都市型水害の研究が1980年代以降は行われていない。また、水害対策の効果については、個々の水害対策箇所において研究が行われているが、流域全体を対象とした長期的な検討がおこなわれていない。そこで本研究では、流域が隣接し、浸水域の発生箇所、発生年代、水害対策の進展の過程に大きな違いのある神田川・石神井川両流域を対象とした。両流域を対象として1974年から2002年の期間において、浸水発生域の変化と水害対策の進展過程との関係を検討した。なお細密数値情報(10mメッシュ土地利用)の首都圏版1974から1994によると、この期間には両流域において著しい土地利用変化が見られないため、その影響を考慮することなく分析が行えた。
    2.調査方法
     神田川・石神井川両流域における浸水地域は、東京都建設局発行の『水害記録』を、水害対策のうち下水道幹線の整備の進展については東京都下水道局発行『下水道事業概要』を、下水道支線の整備の進展については『東京23区の下水道』を、河川改修と地下貯留施設の整備の進展については東京都第三建設事務所発行『事業概要』を使用した。それらをGIS(MicroImages社製.TNTmips)を用いて数値地図化した。得られたデータを谷底低地と台地に分けたが、得られた浸水域と水害対策のデータの精度が粗く、『1/25000土地条件図』の精度と合わなかった。そのため文献をもとにして谷底低地を河道から両幅200mの範囲としてGISで作成した。
    3.結果と考察
     (1)両流域における浸水域の変化1974年から1993年までは、谷底低地内に面積規模の大きな浸水域が多数発生し、台地上に小面積の浸水が点在していた。しかし1994年以降、谷底低地の浸水域は著しく減少し、台地上の小面積の浸水は依然として点在していた。このことは、両流域の水害対策が大規模な浸水が発生していた谷底低地から進み、小規模に浸水が発生していた台地上では遅れたことと対応している。また、1999から2002年に発生した浸水域は、1973年以前に整備された排水機能の小さい下水道幹線の周辺に多く発生していた。(2)神田川流域と石神井川流域の比較神田川流域の浸水対策は1974年以前から進んでいたが、1974年以降の進展が遅く浸水域の減少は多くなかった。逆に1974年以前の石神井川流域の浸水対策は神田川流域に比べて遅れていたが、1974年以降の進展が著しく浸水域の減少も急速に進んだ。そのため、1984年以降は石神井川の浸水域は大幅に減少したが、神田川流域の浸水域は石神井川流域と比べると多く発生していた。1979年から1993年には、本来は浸水発生を現象させるはずの河川改修によって、神田川と善福寺川の合流付近に新たな浸水域が発生していた。これは、河川改修が下流より先に上流で整備されたことが原因である。両流域の浸水対策の違いと河川改修の実施順序の逆転による浸水は、長期展望を持った計画的な浸水対策の重要性を示唆する。
  • 藤岡 悠一郎
    セッションID: 116
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    乾燥気候下に位置するナミビア北中部には、北から南へ緩やかに傾斜する平原が広がり、季節河川が密に分布している。この地方には、野生種のヤシが分布し、洪水による種子散布によって季節河川の周囲を中心に広く生育している。この地方に暮らす農牧民オヴァンボは、本種の果実を食用や酒の原料とし、葉柄を建材、燃料に用いるなど、伐採することなく非破壊的な利用を行ってきた。そのため、高木層にヤシなどの有用樹が優占する特異な植生(ヤシ植生)が形成されている。しかし、ここ数十年の社会・経済変容のもとでオヴァンボの生活様式が大きく推移し、植物利用も急速に変わりつつある。現金収入源として「ヤシ植生」への依存を強める世帯がある一方で、これらの有用樹を燃料として伐採し、重視しない世帯も現れている。本発表では、社会・経済変容にともなうオヴァンボの生活変容が、「ヤシ植生」の変遷に与える影響について明らかにする。 調査はナミビア北中部に位置するウウクワングラ村(U村)にて行った。本発表では、2002年9月から2003年3月、2004年9月から2005年4月にかけて行ったフィールドワークによって得たデータを使用する。 調査の結果、以下の点が明らかになった。1) U村における植生調査の結果、高木層を構成する樹木の9割以上が、果実を食用・酒の原料として利用できるヤシ(Hyphaene petersiana)やマルーラ(Sclerocarya birrea)によって占められていた。2) ヤシとマルーラの果実は酒の原料に用いられ、その酒は村内や町で販売される。調査期間中、調査対象とした30世帯の半数近くがヤシ酒を作り、その全ての世帯が販売を行っていた。販売を行う世帯の多くは家長が定職をもっていない。そのため、酒の販売が重要な現金収入源となっていた。しかし、その一方でヤシ酒を作らない世帯も半数近くにのぼる。その理由のひとつは、家長やその妻が職をもち、ヤシ酒の販売による現金獲得をそれほど重視していない点があげられる。すなわち、世帯の経済状況によって有用樹への依存度が大きく異なり、樹木の有用性の認識に差が生じていることが伺える。3) 食用後に残る種子は、ところ構わず捨てられていたため、村中に広く散布される。そのため、種子を積極的に植える人はほとんどいなかった。しかし、発芽後にある程度成長したヤシやマルーラの稚樹は、成長の促進や家畜の食害からの保護が図られる。例えばヤシの場合、稚樹の成長を促進するために下部の葉が伐採され、先端部の葉を縛るなどの管理がされていた。しかし、近年ではそのような行為を行う世帯は減少している。その一方で、畑の耕起の際に邪魔になるため、稚樹を積極的に伐採する世帯もみられた。4) 高木の果樹も、一部が伐採され、燃料などに利用された。伐採された樹木の大部分は果実をつけないオスの木であったが、一部の世帯ではメスの木も伐採されていた。これらの世帯の多くは、ヤシ酒をつくらない世帯であり、家長やその妻が職を持つ場合が多い。 以上のように、オヴァンボの社会では世帯間の経済格差が広がりつつあり、その格差が「ヤシ植生」への認識の違いを生み、植生の維持・形成に大きな影響を与えている。果樹の必要性が薄れた世帯では「ヤシ植生」が伐採の対象となりつつあるが、その一方で、現金収入源として「ヤシ植生」に大きく依存し、稚樹を保護し、成長を促進させる世帯もある。本地域では、世帯間の樹木利用の格差が、地域の植生変化を左右する重要な要素として働いている。(本研究は、平成17-20年度文部科学省科学研究費補助金・基盤研究A(研究代表者:水野一晴)「南部アフリカにおける「自然環境-人間活動」の歴史的変遷と現問題の解明」と、21世紀COEプログラム「世界を先導する総合的地域研究拠点の形成」の一環として行なわれている)
  • 佐藤 浩, 小荒井 衛, 岩橋 純子, 牧田 肇, 八木 浩司
    セッションID: 117
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    研究対象地区は、秋田・青森県境の二ッ森(標高1,086m)の北麓に位置する白神山地・泊の平地区(面積:3.8km2)である。研究対象地区の主な植生はブナ林であり、地すべり地形が顕著である。1.5m解像度の航空ハイパースペクトルセンサデータを使って8分類からなる植生分類図と、1m2に2から3点の反射点を有する航空レーザ測量データを使った12分類からなる地形分類図を作成した。両者の関係を調べた上で、最終的に両者を組み合わせた12分類からなる地生態学図を作成した。
  • 小荒井 衛, 長谷川 裕之, 村上 弘明
    セッションID: 118
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    迅速測図、米軍写真、環境庁の現存植生図などの、位置精度や分類項目の種類が異なる、様々な時系列の地理情報を活用して、多摩地区の明治初期、第二次世界大戦直後、昭和後期の土地被覆変化の状況を把握した。その結果、終戦直後には森林部において伐採等が多く行われてきていること、並びに森林部や耕作地共に多少宅地等の市街地化が進んでいること、終戦直後から昭和後期までは、森林部の市街地化よりも耕作地の市街地化の方が大きく、耕作地の大半が市街地化されていることなどが明らかになった。
  • 鈴木 力英, 徐 健青, 本谷 研
    セッションID: 119
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに: 世界の陸域における植生は気候条件によって強く支配されている. 2004年春季学術大会では衛星観測による植生指数と湿潤指数,温量指数との地理的分布の関係を2年の平均値を元に解析し,湿潤条件支配型植生と温量条件支配型植生の全球分布を示した (「前報」と呼ぶ).今回は多年平均値ではなく,10年間の経年変化の関係から,温度と水条件に対する植生指数の経年変化の反応を分析した.また新たに,光合成有効放射量(Photosynthetically Active Radiation : PAR) (0.4 – 0.7μm)も取り上げ,植生との経年変化の関係を評価した.
    2. データと解析方法: 解析は全陸域を覆う1×1度のグリッドセルをベースに行った.すべての解析は10年間(1986から1995年)の経年変化を元に行った.植生指数: 植生指数データは千葉大学によって作成された「Twenty-year global 4-minute AVHRR NDVI dataset」から得た.北半球では3月から9月まで,南半球では9月から3月までの各1×1度グリッドセルにおける季節平均の植生指数を計算した.湿潤指数,温量指数,PAR: 湿潤指数は各1×1度グリッドセルについて可能蒸発量に対する降水量の比(P/Ep)で計算する.温量指数は月平均気温のうち5oCを超えた部分を年間積算して求める.実際の計算にあたり,可能蒸発散量はISLSCP (International Satellite Land Surface Climatology Project) Initiative IIのデータを用いて推定した.降水量はNCEP (National Centers for Environmental Prediction)の再解析データによる6時間値をGPCC (Global Precipitation Climatology Centre)による月別降水量でキャリブレーションした値を用いた.温量指数の計算にはISLSCP Initiative IIの気温データを用いた.PARもISLSCP Initiative IIから月別値を得た.
    3. 結果: 陸上の各グリッドセルにおいて,植生指数と三つの気候量(湿潤指数,温量指数,PAR)の10年間経年変化の相関係数を計算した.有意水準を高めるため,1度グリッドを4つ集め(2×2度),全部でサンプル数を40として計算した.各2×2度グリッドで[植生指数 vs. 湿潤指数],[植生指数 vs. 温量指数],[植生指数 vs. PAR]の相関係数のうちどれが最も正で大きいかを図1に示した.ユーラシアの北緯60度以北,北アメリカの北緯50度以北,標高の高い地域では植生指数と温量指数の相関が最も高い.一方,その他の地域ではおおかた湿潤指数との相関が最も高いことがわかる.この結果は,経年変化を考慮せずそれぞれの分布のみで分析した前報の結果とほぼ一致する.植生指数とPARとの相関が一番高くなるグリッドは熱帯地域やシベリア西部,沿岸地帯に多く認められるが,全体的にはその数は少なかった.PARと植生指数は共に雲量の影響を受けるなど,データとしての問題も考えられ,今後のさらなる検討が必要である.
  • 佐藤 尚毅
    セッションID: 120
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに: 世界の陸域における植生は気候条件によって強く支配されている. 2004年春季学術大会では衛星観測による植生指数と湿潤指数,温量指数との地理的分布の関係を2年の平均値を元に解析し,湿潤条件支配型植生と温量条件支配型植生の全球分布を示した (「前報」と呼ぶ).今回は多年平均値ではなく,10年間の経年変化の関係から,温度と水条件に対する植生指数の経年変化の反応を分析した.また新たに,光合成有効放射量(Photosynthetically Active Radiation : PAR) (0.4 – 0.7μm)も取り上げ,植生との経年変化の関係を評価した.
    2. データと解析方法: 解析は全陸域を覆う1×1度のグリッドセルをベースに行った.すべての解析は10年間(1986から1995年)の経年変化を元に行った.植生指数: 植生指数データは千葉大学によって作成された「Twenty-year global 4-minute AVHRR NDVI dataset」から得た.北半球では3月から9月まで,南半球では9月から3月までの各1×1度グリッドセルにおける季節平均の植生指数を計算した.湿潤指数,温量指数,PAR: 湿潤指数は各1×1度グリッドセルについて可能蒸発量に対する降水量の比(P/Ep)で計算する.温量指数は月平均気温のうち5oCを超えた部分を年間積算して求める.実際の計算にあたり,可能蒸発散量はISLSCP (International Satellite Land Surface Climatology Project) Initiative IIのデータを用いて推定した.降水量はNCEP (National Centers for Environmental Prediction)の再解析データによる6時間値をGPCC (Global Precipitation Climatology Centre)による月別降水量でキャリブレーションした値を用いた.温量指数の計算にはISLSCP Initiative IIの気温データを用いた.PARもISLSCP Initiative IIから月別値を得た.
    3. 結果: 陸上の各グリッドセルにおいて,植生指数と三つの気候量(湿潤指数,温量指数,PAR)の10年間経年変化の相関係数を計算した.有意水準を高めるため,1度グリッドを4つ集め(2×2度),全部でサンプル数を40として計算した.各2×2度グリッドで[植生指数 vs. 湿潤指数],[植生指数 vs. 温量指数],[植生指数 vs. PAR]の相関係数のうちどれが最も正で大きいかを図1に示した.ユーラシアの北緯60度以北,北アメリカの北緯50度以北,標高の高い地域では植生指数と温量指数の相関が最も高い.一方,その他の地域ではおおかた湿潤指数との相関が最も高いことがわかる.この結果は,経年変化を考慮せずそれぞれの分布のみで分析した前報の結果とほぼ一致する.植生指数とPARとの相関が一番高くなるグリッドは熱帯地域やシベリア西部,沿岸地帯に多く認められるが,全体的にはその数は少なかった.PARと植生指数は共に雲量の影響を受けるなど,データとしての問題も考えられ,今後のさらなる検討が必要である.
  • 佐川 正人
    セッションID: 121
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    I.目的
    北海道東部太平洋側では濃霧の頻発することが知られている.一部の住民の間では近年において霧が減少したのではないかと言われている.本報では霧の出現の長期的な経年変化を明らかにし,その解析結果について報告する.
    II.使用資料
    使用資料は気象庁SDPおよびSD資料(CD-ROM)と気象庁電子閲覧室の資料である.気象庁電子閲覧室の資料は長期的(1931年から)な資料を得るためのみに使用した.解析対象期間は1931年から2005年とした.SDP(毎時資料の内3時間毎の資料のみ採用)およびSD資料(3時間毎の観測)は1961年から1999年まで使用した.これは釧路地方気象台が2000年10月に移転したため,この前後において観測資料に連続性が無いと考えたためである.また,釧路地方気象台では1995年4月より24時の霧に関する観測が中止されたので,資料の均質性を保つためにSDおよびSDP資料については全期間において24時の観測資料を除いて解析をおこなった.
    III.結果
    釧路の風配図を第1図に示す.これによれば作図対象期間においては北北東の風が最も卓越しているものの,これを霧出現時のみを抽出し作図すると,南よりの風が最も卓越することが理解できる.これは霧発生時においては,主に釧路の南海上からの移流霧(海霧)を生じさせる風が卓越するためと容易に考えられる.霧発生時においては北よりの風も若干卓越している.これは釧路湿原からの放射霧とも想像できるが,まだ検討の余地がある.第2図下を見ると年霧日数,年霧回数ともに(一概に同質の資料とは言えないが)減少傾向にある.年霧回数を北系統の風と南系統の風に分けて比較すると,特に北系統の霧は1980年頃を境に減少傾向に歯止めがかかっているように思われる.これを霧回数の年増加率(第2図上)で見ると,その傾向が明らかである.南系統の霧(≒海霧)回数も同様の傾向にある.気象台移転に伴って2000年以降との比較は一概に出来ないものの,霧の出現回数の減少は歯止めがかかっていると考えられる.
  • 中川 清隆, 榊原 保志
    セッションID: 122
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
     夜間都市ヒートアイランド強度が郊外の接地逆転強度や風速と良い対応関係を示すことがしばしば観測される。夜間都市域に移流して来る風上郊外の接地逆転層が強制混合/加熱混合により破壊されて都市混合層が形成されるため都市域地表面近傍で昇温が生じた可能性が大きい。この種の都市ヒートアイランド強度の形成メカニズムをモデル化するための第一段階として、夜間郊外に形成される接地逆転層内温位勾配α地上気象要素からの推定法の開発を試みた。
     日没後のモデル温度プロファイルと地表面熱収支を関連付けることにより、接地逆転層内温位勾配αを推定する式として、次式を得た。
    α=θ(1-εa)/{2h+(ρaCp/2σθ*3)(u*2/u2)uz+(λs/2σθ*3)(h/d)}
    ここで、θ;日没時の温位、εa;大気の見かけの射出率、h;接地逆転層厚、ρa;空気密度、Cp;乾燥空気の定圧比熱、σ;ステファンボルツマン定数、u;風速、u*;摩擦速度、z;風速計高度、λs;土壌熱伝導率、d;土壌不易層深度である。接地逆転層厚hと土壌不易層深度dはともに時間の平方根に比例する。
     この推定式によれば、日平均気温(温位)が高いほど、大気の見かけの射出率が低い(水蒸気圧が低い)ほど、風速が小さいほど、夜間接地逆転層内の温位勾配は大きくなり、日没後の時間経過が長くなるほど小さくなる。既存の調査結果における夜間接地逆転層内の温位勾配と風速の関係を検討すると、風速が大きい場合には本報告と同様の傾向が認められるが、至軽風以下の弱風時には、本報告とは逆に風速が小さいほど夜間接地逆転層内の温位勾配が小さくなる傾向が認められる。本報告と既存の調査結果との間の相違は、本報告における線型温度プロファイルの仮定や気層の放射冷却の無視に起因している可能性がある。
  • (3) 空気力学的パラメータの算出
    高橋 日出男, 中村 康子
    セッションID: 123
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    ◆はじめに:地表面状態に関わる空気力学的パラメータは,風速(鉛直・水平)分布や乱流による熱輸送などに関与し,都市域における大きな地表面粗度は都市気候の形成に重要な役割をはたしている.また,報告者らは東京都心域において新宿や池袋など高層建築物群の風下側に強雨発現の高頻度域が存在することを指摘し(2005年度春季大会S506),局地的な短時間強雨発現の地域性に対して地表面粗度の空間分布が関わっている可能性を示唆した.地表面の幾何学的形状に基づく空気力学的パラメータの算出方法として,近年いくつかの方法が考案されており,Grimmond and Oke(1999)は現実の都市のデータを基にそれらの比較を行っている.本報告では,前報の天空率(2006年度春季大会320,P826)に引き続き,建築物などの地表面形状を再現できる高細密な地表面高度のデジタルデータを用いて東京都区部における空気力学的粗度z0およびゼロ面変位zdの分布を求めることを目的とする.その上で,z0zdをパラメータとする風速の対数分布を仮定し,地表面の粗度に起因する上昇流速の簡易的な評価を試みた.
    ◆方法:z0およびzdの算出に際し,Grimmond and Oke(1999)が比較的よい結果を得るとしているRaupach(1992,1994,1995:以下RA)とMacdonald et al.(1998:以下MA)の方法を比較検討する.両者は,領域の面積ATに対する?AF(風向に直面する粗度体側面の総面積)の比λF,もしくはλFおよびATに対する?AP(粗度体を水平面に投影した総面積)の比λPの両方,ならびにその領域における粗度体の平均高度zHが必要となる.本研究では,建築物等を含む2.5m間隔の地表面標高(DSM:Digital Surface Model,(株)パスコ作成)から,数値地図5mメッシュ(標高)の2.5m間隔内挿値を差し引いた値を建築物等の高度とした(負値は0mとする).ただし,ここには微小な地物も含まれることから,有効な粗度体とみなす最小高度を設定する必要がある.そこで,大田区久が原において本研究と異なる方法でλFλPzHを求めている森脇ほか(2004など)の値を参考に検討し,1階建て建築物高度にほぼ相当する高度3.5mより低い建築物等を無視する(0mとみなす)ことにした.これに基づいて大田区久が原の1km四方における建築物数や平均床面積を求めたところ,東京都都市計画局作成のGISデータから得られる値と整合的であり,DSMデータによるλFλPzHの算出は密集低層住宅地においても十分な精度で行えると判断した.
    ◆考察:以上の経過をふまえ,東京都区部全域について,1km四方の領域を東西および南北方向に200mずつずらしながらλFλPzHを求め,RAおよびMAの方法でz0zdを算出した.zdの分布については,値の大小の分布はMAとRAとで類似しているが,MAでは全体にやや値が大きく,一方荒川などの河川近傍では明瞭に小さい.z0(付図)に関しては,MA(a)はRA(b)に比べて全体に値が小さいが,河川近傍では周囲に比べてz0が大きくなっており,RAでは河川近傍のz0は小さい.粗度体がまばら(λPが小さい)な河川敷が卓越する場合,MAではzdを過小評価し,そのためz0が大きくなっている可能性がある.
     RAによるz0およびzdを基に,高度250mの風速を10m/sで一様とした場合に,風向方向の1km間における風速変化から求めた収束量を鉛直方向に積分して上昇流速を求めた.新宿などの高層建築物群付近では0.2m/s程度の値が得られ,風向によって上昇流速の大きい箇所に差異が認められた.
    謝辞:数値地表モデル(DSM)の利用に関して,多大なご便宜を図っていただいた(株)パスコに篤く御礼申し上げます.

    付図 (a)Macdonald et al.(1998)および(b)Raupach(1992,1994,1995)の方法による空気力学的粗度長z0の分布(南北方向の風の場合)
  • 福岡 義隆, 松本 太, 鈴木 まどか, 丸本 美紀
    セッションID: 124
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究の背景と目的 都市の温暖化に対する緩和効果を目的とする屋上緑化には種々のタイプがあり、それぞれに計画と実施が推進されているが遅々として進んでないのが現状である。演者らが5年ほど前から研究対象にし、本学会でこれまでにも一部紹介している「さいたま新都心」駅そばの「けやきひろば」は所謂「屋上緑化施設」とは違い、「空の森」をメインテーマとして地上7m(ほぼ2階建の屋上)の人工地盤上に220本のケヤキが植栽されたものである。この施設は既設のビル屋上に猫の額ほどの草花を植栽させている所謂「屋上緑化」とは規模も効果も大きく異なるが、温暖化緩和という目的は同じである。本研究では「けやきひろば」が屋上樹木緑化としての機能を発揮しているかを主目的に微気象調査を続けてきている。 2005年度は「けやきひろば」内外において簡易法ではあるが炭酸ガスと二酸化窒素の2項目についての濃度観測も試み、見かけ上ではあるがケヤキ林による大気汚染浄化作用が認められた。 それらの観測成果の一部を紹介し、屋上樹木緑化の存在意義と大気汚染濃度との関係、その中の温暖化ガスCO2と温暖化との因果関係についての問題を論じてみたい。
    2.「けやきひろば」内外の気温分布と温暖化ガスの寄与に関する考察NO2はザルツマン試薬を使った簡易測定キット、CO2は炭酸ガス測定器testo535を用い、約1ha内に12地点で移動による分布観測を実施した。夏秋冬、3回/日、計12回観測した。結果の1部(H17年8月29日)によるとキャノピ上は394ppmであるが林内は360から370ppmと低い。緩和効果らしい分布が見られる。NO2にも同様の結果が得られた。 図 CO2濃度分布例(2005.8.29) このような微気象的な現象とは別にCO2濃度がはたして温室効果ガスとして温暖化に大きく寄与しているのだろうか疑問視されている(根本順吉1994、槌田敦2006)。CO2温暖化説の問題点をも論じてみたい。(立正大ORC、文科省科研、住友財団助成等使用)
  • 香川県綾南町の事例
    篠原 重則
    セッションID: 201
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    香川県を代表する食文化はうどんである。香川県で小麦の栽培の盛んなのは高松市と中讃地方の坂出市・丸亀市等であるが、本日、報告する綾南町は、高松市と琴平町の中間にあり、そこにある道の駅「うどん会館」は、香川県のうどん文化普及の一つの核心的機能を果たしている。本日の報告は「農林水産物直売と地域社会の活性化」に関する研究の一環として、中讃地方に事例を求め、うどん文化の普及を核に発表するものである。
  • 今野 絵奈, 石原 大地, 磯野 貴志, 高柳 長直, 増井 好男
    セッションID: 202
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 食のグローバル化が進展し、輸入食材が溢れている。一方、BSE(牛海綿状脳症)や産地偽装問題が発生し、食の安全性に対する消費者の信頼は大きく揺らぐこととなった。多くの消費者が安全な食品を求めるようになり、ブランド農産物が注目されるようになった。その中で、最も関心の高い品目の一つが牛肉である。かつて牛肉は高級食材であったが、輸入牛肉の増加によって、牛丼、ハンバーガーなど身近で消費できるようになった。しかし、BSEの発生は牛肉の消費を激減させ、肉牛生産者や外食産業に大きな影響を与えた。今日、低価格の牛肉の拡大が進む一方で、国産銘柄牛の需要が高まっている。松坂牛や前沢牛などが有名なブランド牛であるが、近年とくに知名度をあげたのが飛騨牛である。本研究では、飛騨牛の産地がどのように形成され、どのようにブランド化に取り組んだのか、またブランドによる地域振興の課題を考察する。2.飛騨牛の産地形成と生産の実態 飛騨地方では古くから肉用牛の生産が行われており、第2次大戦後に和牛改良に力を入れるようになった。1981年に但馬牛の血を引く「安福号」を1,000万円で購入したことが、飛騨牛の産地形成と銘柄を確立する上で最も重要な転機となった。 肉用牛の流通で最も重要視されるのは血統である。岐阜県では、岐阜県畜産研究所で精液を一括管理している。繁殖農家では畜産研究所から精液ストローを890〜1,920円の低価格で配布を受け、人工受精を行っている。三ツ谷地区(高山市清見町)では子牛の安定供給を図るために、16戸の肥育農家が参加して、飛騨牛繁殖センター農事組合法人を設立した。繁殖センターの子牛供給では数量が不足するため、肥育農家は北海道、鹿児島県など岐阜県外から子牛を導入している。繁殖農家と肥育農家が分業することによって、牛の体調の変化など、細心の注意を払った飼育管理を行うことにより、良質の肉牛生産を行うことが可能となっている。3.飛騨牛のブランド化と消費拡大 飛騨牛の品質保持・向上のために、1988年に岐阜県経済連(現JA全農岐阜県本部)を中心に飛騨牛銘柄推進協議会が発足した。年2回の共進会が開催され、農家の生産意欲を向上させ、肉質向上を図る相乗効果が図られている。また、飛騨牛フェアなどを開催し、飛騨牛に対する一般消費者と地元住民の理解と親睦を図っている。5等級の飛騨牛を年間5頭以上の消費に貢献している販売店、料理店を飛騨牛の指定販売店・指定料理店に認定し、安定的な販売促進を図っている。 2002年12月から、飛騨牛は岐阜県内で14ヶ月以上肥育された日本食肉格付協会の規定するA5〜A3、B5〜B3の黒毛和牛と定められている。供給量確保の規格拡大に伴い、品質の低下が生じたとの消費者の誤解を避けるために、5等級(最上級品)を金、4等級(上級品)を銀、3等級(標準品)を白と色分けしたパックシールで明記することにより、消費者は肉質と価格を確認して、購入できるようになった。 飛騨牛の約70%は岐阜県と愛知県内で消費されている。販売地域をしぼり込むことにより、地元での認知度を高め、消費者の信頼獲得に努めている。特に、高山市は国際的な観光都市であり、高山市を訪れた観光客が飛騨牛を賞味することによって、大きな宣伝効果となり、観光客誘致と地域振興に役立っている。4.産地振興の課題 飛騨牛が著名な銘柄牛に成長したのは、種雄牛・精液の管理、飼料の生産拡大や品質改善など岐阜県畜産研究所、農協、農家が一丸となって取り組んできた成果と言える。今日、トレーサビリティシステムの導入によって、生産履歴情報が消費者に開示されようになった。地域ブランドとしての飛騨牛の評価が高まっていることを考えると、更なる飛騨牛のブランドを確立するために、岐阜県内での繁殖力を強化し、他県から子牛を導入することなしに100%地元で確保された「純飛騨牛」の生産を目指すことが、消費者の信頼を確実なものにするものと思われる。 アメリカ産牛肉の輸入が再開され、特定危険部位(脊髄)が混入していたことにより、再び輸入が停止された。輸入が再開されても、当面の輸入量は限定的と思われるが、中長期的には低価格の輸入牛肉の需要が高まり、牛肉の価格を押し下げるものと予測される。現在、BSE問題による流通量の減少に伴って、牛肉の価格は比較的堅調に推移しているが、牛肉価格の下落を予想した産地の対策が求められよう。繁殖農家の技術力、労働投下量に比較して肥育農家は朝夕1回1時間程度の給餌、昼の見回り、10日に1回の床替え程度で、労働投下量は少なくてよい。労働力1人当たりで250頭ぐらいの牛を飼育できると言われている。したがって、多くの肥育農家では、飼養規模を拡大することも可能となり、飼料費などのコスト削減に留意しながら、輸入牛肉への対応策を考えていくことも重要であろう。
  • 広島県東広島市I地区の取り組みを事例として
    光武 昌作, 金光 由江, 淺野 敏久
    セッションID: 203
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    日本の都市近郊農地を今後誰が担っていくかは今や重要なテーマであるが、その担い手を農家のみに限らず、景観保全やコミュニティ維持のような観点に立ち、農地所有者と都市住民との連携によって、保全・活用していく可能性を考えられないだろうか。本報告では、広島県東広島市のほぼ中央に位置するI地区の取り組みを事例として取り上げ、報告者らが、この地区にて行われている里山・農地保全などの活動に直接参加する中からの観察及び、地権者や近隣住民、活動の参加者へのインタビューやアンケート調査の結果を紹介する。調査の結果、近隣住民は農地を景観や周辺環境も含めた価値あるものとして捉え、また安全な農産物生産の場としても重視していることが明らかになった。一方で農地所有者は、営農意欲が低く農業よりもむしろ農地の維持管理について関心が高いが、その農地の保全に近隣住民が関わることに対して消極的な意識を持っていることが判明した。つまり農地保全については、各関係者がそれぞれの文脈の中で意識はしているが、相互のつながりがない。今後それらをつなぐ仕組みを考え、地域全体で取り組むという意識を持つことが必要だと考えられる。
  • 井口 梓, 田林 明, ワルデチュック トム
    セッションID: 204
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    I 研究目的と研究対象地域
     日本における農業の主要な担い手として,従来型の個別経営農家,認定農家を中心とした大規模な自立経営農家,農業生産法人,集落営農組織,農業サービス事業体などを挙げることができる。なかでも農業生産法人には,近年アグリビジネスへの参入や,観光農園,直売所,農産物の加工販売など多岐にわたって経営拡大を図る経営体もみられ,近年注目を集めている。他方,地域内で点在していた個別経営農家を一つにまとめることで,彼らのもつ資源や労働力,農業技術や経営の知識などを最大限に活用し,自立経営を実現していくなど,地域農業全体の意欲を高めるという側面も評価されている。本報告では,このような農業生産法人に着目し,白子町の養液栽培団体を事例に,施設園芸農業の持続システムを各々の経営組織の発展過程の分析を通して明らかにする。
    II 白子町における施設園芸農業の変遷
     対象地域とした白子町を含む九十九里平野は,戦後,施設園芸地域として発展し,首都圏の野菜供給地として重要な地位を占めてきた。白子町おける施設園芸地域の形成過程は,大きく分けて3つの時期に大別できる。第1に,水稲・根菜類・多品目野菜など伝統的な作物生産から,構造改善事業を利用してビニルハウスを導入するに至った1960年代までの園芸産地形成期である。第2に,1970年代の半促成トマトと抑制キュウリによる年2作の作型を,トマトの2期作へと転換させ,産地化を図っていった施設園芸の成長期である。第3に,1980年代以降の施設園芸の転換期が挙げられる。この時期に,南部の一宮町では大規模な温室ガラス団地が建設され,設備投資により従来からの作目の生産を拡大する方向に向かったが,白子町では,トマトの連作障害や後継者不足を背景に兼業化が進む一方,無加温ハウス栽培や多品目化を図る農家があらわれるなど各々の経営形態がしだいに分化していった。そのなかで施設園芸技術の高度化を図り,農業経営の維持・発展を実現したのが養液栽培の導入によってあらたな品目生産へと転換していった農家である。
    III 養液栽培技術の導入による施設園芸維持のメカニズム
     1980年に7戸(うち中里地区は6戸)のトマト施設園芸農家が,1億8千万の事業資金を得て水耕施設を導入し,水耕温室組合(青ネギ)を設立した。設立当初は,ガラス団地を各農家50aずつに分け,1年ごとに圃場を交換し公平さを保つなど共同性をもち,地縁的にまとまりのある農家を中心に集落営農の性格を有していた。これらの農家は地域にとって先駆的な農家であり,追随する若い後継者世代にとって農業意欲を向上させるきっかけとなった。その後,彼らと交流のあった若い農業者を中心に,白子グリーンファーム(サラダ菜・トマト),ロックウール組合(トマト),白子町花卉園芸組合(ガーベラ),水耕とり組合(トマト)が相次いで設立された。これらの組織は,水耕温室組合が取り入れた技術革新を受け入れながらも,組織の機能は施設と圃場の提供,資材の共同購入にとどめて個人単位の経営を中心とし,集落を超え広域で参加者を集うなど,地域営農の性格も取り入れた。また,補助事業を申請する際には,取り組める条件の揃った農家のみが参加するようにしたことで,個々に応じた経営を維持することが可能となった。これら5つの団体は,定期的に情報交換や交流活動をおこなって関係性を維持しており,新規事業の際には,組織の枠を超え品目ごと水耕の方式ごとに農家が連携をもつこともある。自立経営のやりがいと共同組織としてのメリット十分に活用し,個人と集団が柔軟な関係を保っていることが,持続的な経営,組織づくりを可能にした要因であるといえる。
  • 福島県相馬原釜漁協の産直事業を事例に
    深瀬 圭司
    セッションID: 205
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.本発表の目的
     本発表で取り上げるのは,福島県相馬双葉漁協原釜支所(以下,漁協)が2002年に開始した,港に早朝揚がった獲れたての鮮魚の中から当日の水揚げに応じた魚種構成で少量ずつ詰め合わせた「鮮魚ボックス」を首都圏の居酒屋店舗や個人消費者に直接販売する産直取引事業である.この事業の最大の特徴は,たとえ事前に発送を約束していたとしても,当日に不漁だった場合には,保存しておいた鮮魚や加工品,他産地から取り寄せた魚で代替せずに,正直に欠品してしまうところにある.しかもこの事業は,個人消費者よりむしろ大手居酒屋チェーンの店舗が主たる取引先となっている.従来,欠品のないことを前提にした食材調達を行ってきた大手居酒屋チェーンが,このような取引を求め,受け入れることができた要因は何であろうか.また,一般に従来は大口の取引を前提としてきた漁協が,このような小口の取引を行えているのはなぜだろうか.  これらの疑問を検討すると,この事業が存立するしくみの中には,地方での経済活動を今後も持続していくことを考える上でのヒントが示されているのではないかと考えられる.発表の場では現地調査の画像も交えて題材を提起し,この事例の持つ含意を議論したい.
    2.「鮮魚ボックス」事業の概要
     この事業は,バブル景気崩壊後の魚価低迷に歯止めをかけることを目的に漁協が2002年度に開始したものである.組合員が漁協の産地市場へ上場した天然鮮魚に,産地仲買よりも高い札を入れることで魚価向上を図り,同時に中間流通を通さないことによって消費者や居酒屋に通常の市場流通ルートよりも安く,高鮮度で販売するものである. この事業は漁協の販売企画課が担当している.彼らは漁協の販売課が運営する産地市場で買参権を行使してセリに参加し,鮮魚を調達する.消費者からは豊田通商の運営するインターネット通販サイト「にっぽん地魚紀行(https://www.j-sakana.jp/)」を通じて2,000円台から20,000円台の7ランクから注文を受け付ける.居酒屋からは店舗ごとに取引数量・曜日・ボックスの単価を事前に交渉した上で受注している.ボックス内の魚種構成はすべて漁協に任されており,漁協はそれらと揚がった魚の質,数量など港の朝の状況および「鮮魚ボックス」の金額ランクを勘案して,各々の取引先に最適なボックスを作っていく.漁協は数kgずつカゴに入れられた魚の中から狙ったカゴに相場の3割増もの札を入れて確実に競り落とし魚価向上を図る.「鮮魚ボックス」は,ヤマト運輸のクール宅急便によって消費者や居酒屋へ翌日までに直送される.居酒屋では漁協の提案する調理方法を見ながらその食材を使って作る料理を決定し,店舗内の黒板等で獲れたて鮮魚を使った産直メニューとして来店客にアピールされる.
    3.取引が成立するメカニズム
     こうして取引される食材は,海のしけ等を理由に時に欠品が起こる.これは取引が成立する上でのネックとなりうるが,実際には難点とならなかった.それは主要取引先の大手居酒屋チェーンにとっては,欠品も辞さない鮮度へのこだわりが価値だからであり,一方の漁協にとっては,この取引が無理な投資なく開始でき,しかも従来は価値を評価されなかった魚種も含めて有効に販売するチャネルが確保できた面で追加的な事業だったため取引を毎日維持する必要がなかったからである.こうした事業が可能になるためのハードルが下がった背景には,通信技術の革新と小口輸送サービスの発達があったと言えるのではないか.
    4.流通全般にもたらす含意
     産直取引自体は古くから広く行われてきたが,それはこだわりを持った個人消費者向けの特殊事例や,単なる直接仕入れによるコスト削減を目指した小売チェーンの行動という側面が強かったろう.しかし日本で戦後採られてきた,規模拡大で採算を確保するという発想に立たない,小規模な「均衡解」を得るようなビジネスが成り立つ条件が整いつつあることが,この事例から言えるのではないか.
    5.非都市部の地域産業にもたらす含意
     4.が日本の地方部における経済活動の持続に対して持つ示唆は大きいと考える.すなわち大都市部に比して人口や経済規模の小さい地方部が,都市部の規模に沿う大規模ビジネスを打ち立てようとせずとも済むような,無理のない小規模ビジネスを成立させるためのハードルが下がっているというのである. もともとの規模が小さい地方部にあっては,たとえ都市部からわずかの富を流入させたとしても,地元にとってのインパクトは少なからぬものとなろう.物理的な距離のハンデが通信や運輸サービスの革新によって緩和されつつある今,地方はチャンスにあると言えるのではないか.
  • ハンブルクとブレーメンの事例
    遠藤 幸子
    セッションID: 206
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.はじめに
     都市と港の関係を考察するにあたって、ハンブルクとブレーメンの事例を比較検討することは、2つの都市の市政府が港を都市の発展という観点からどのように捉えているかを知るうえで興味深い。ハンブルクは、港とともに生きる道を模索し、Hafenstadtと自ら名乗る、いわゆる港湾都市である。一方のブレーメンは、かつてはHafenstadtと呼ばれていたこともあるが、近年ではStadt am StromあるいはÜberseestadtと呼ばれることが多い。ただしこれらには定訳が見当たらない。
     港湾経営に長けたこの2つの都市は、外港をもつことに成功し、さらには、大水深港湾の経営に2010年から乗り出そうとするブレーメンに対し、外港をもたず、大水深港湾の経営に不参加を表明したハンブルクという、対立と競合の関係を呈している。このことは、かつては繁栄の中心であったにもかかわらず、現在では遊休化してしまった港湾地区の再開発への取り組み方の違いともなって現れている。
     筆者はここ数年、継続してこの2都市を研究対象として、港の景観・施設・機能に関する資料の収集にあたってきた。今回は、都市の発展と港の再開発という観点から、両者の特徴を明らかにしてみたい。

    2.ブレーメンの光と影
     ブレーメン市はブレーメン港とともに発展するという道を選択しなかった。ブレーメン港は毎年、取扱貨物量が激減しており、近代港湾発祥の地を含む約400haの旧港地区が再開発地区に指定されている。しかし、ブレーメン市には多面的な都市的土地利用を遂行するにあたってのコンセンサスが欠けていた。それでも、2000年には発展構想が市政府より出され、3年後にはマスタープランも策定された。2010年までにÜberseestadtの理念に基づく再開発が完成の運びとなる。再開発対象地区では、商業施設や業務施設が完成しているところもあるが、まだ、大半は草の茂った荒地のまま放置されており、ここが都市ブレーメンの過去の栄光の地であるという面影は皆無である。港の機能の主力はヴェーザー川の河口にあるブレーマーハーフェンに移っている。ここはドイツ最大の自動車積出港であり、コンテナ貨物の取扱量ではハンブルク港についで、ドイツ第2位の実績を誇る。ブレーメン市に誕生した港湾関連の企業は、本社をすでにブレーマーハーフェン市に移したものもある。首都がベルリンに移転し、ドイツ第2の都市ハンブルクに本社や支社をおいていた企業のなかには、ベルリンに拠点を移す企業が現れたといわれているが、今後、ブレーメン市が再開発地区に中枢管理機能を集積させうる可能性は必ずしも高くないといえる。

    3.ハンブルクの光と影
     1990年代になって、ようやく自由港地区に人が居住することを認めたハンブルクは、これで中世ハンザ時代と同じような港湾都市に回帰することができたと報じた。勿論、中世と現代では、都市構造・港の配置・港湾地区に居住することの意味は異なる。自由港で現在進行中の再開発は、HafenCityと呼ばれ、多くの建築家が競い合う華やかな舞台を提供している。ドイツ最大の港であり、そこで展開されている再開発の規模も群を抜いている。しかし、エルベ川に面し、河口から110kmも上流に位置するハンブルク港には、水深という関門と港の拡大は市民の犠牲なくしてはありえないというジレンマを抱えている。それでも、大水深港湾の建設には参加しないことを決めた市政府は、あくまでハンブルク港とともに生きる道を選択した。

    4.おわりに
     ブレーメンとハンブルクの都市と港の関係についての考え方は対照的である。港の経営は適地にて行うべきであるとするブレーメンの方針は、港の再開発を都市の発展とどう結びつけるかという点で、ハンブルクに匹敵するだけの開発の理念をもたない。豊かな観光資源を有するブレーメンは、ハンザの盟主リューベックのようになるのだろうか。それとも、大水深港湾の経営に成功して、ハンブルクに脅威を与えることになるのだろうか。ヴェーザー川に沿うブレーメン港を早々と見捨てたブレーメン市は、都心に隣接した遊休地のもつ意味とは何かを十分に理解してはいないように思われる。
  • 根田 克彦
    セッションID: 207
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    アメリカ合衆国の大都市圏では,1950年代以降に計画的ショッピングセンターが発展して,都心商業地の衰退が始まった.しかし,1970年代後半以降アメリカ合衆国では都心商業地を活性化するためのさまざまな事業が実施された.そのプログラムの一つとして,歴史保全のためのナショナル・トラスト(The National Trust for Historic Preservation)の一部であるナショナル・メイン・ストリート・センター(National Main Street Center)が実施しているメイン・ストリート・プログラムがある.1980年以来,40州1,000以上のコミュニティがこのプログラムに参加した.このメイン・ストリート・プログラムをインナーシティ再生に用いたのが,ボストン市である.ボストン市では1985年にこのプログラムを,インナーシティに立地するRoslindale Village近隣地区に適用した.このプログラムは,土地利用,住宅,空きスペース,公共領域,産業成長,都市デザインに関する交通に焦点を絞った.Roskindaleは,着実に再生して,近年,Main Street賞をNational Trust for Historic Preservationからもらった.1995年にボストン市はこのプログラムを他のインナーシティの10地区の近隣型商業地に適用し,1都市で複数の商業地にメイン・ストリート・プログラムを採用した最初の都市になった. 1995年にボストン・メイン・ストリート・プログラムが適用された近隣型小売商業地は11地区であったが,2003年には21地区になった.このプログラムの特徴は,近隣型商業地の店舗を活性化することばかりではなく,商業地でのビジネス環境を整えて新規事業とビジネスの拡大を支援することにより職場を充実させ,さらに近隣型商業地を支える近隣コミュニティの居住環境を改良し,ボストンの近隣地区を,店舗にとって良好な場所にするだけでなく,居住と仕事の場としても良好なものにすることである(City of Boston 2000). そのために,商業地の構成メンバーばかりではなく,ボストン・メイン・ストリート・プログラムでは,コミュニティの住民,ボストン市の企業との間に強い結びつきを持つパートナーシップを形成させることに,この事業の特徴がある.それら住民,経営者などの共同活動により,その地区のアイデンティティをつくり,「我々は共同体である」との原理を維持できるのである.賛助会員の資金的義務は1年間で1万ドルと,メイン・ストリートを助けるための人材,情報などを提供することが期待される.現在,賛助会員として,マサチューセッツのBlue Cross Blue Shield,ボストン連邦サービス銀行,ボストン民間銀行など多くの会社が参加している.
  • 大石 太郎
    セッションID: 208
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    複数の言語集団が存在する地域では、多くの場合人口規模に対応する形で優勢な言語と劣勢な言語が存在するという状況が形成されやすい。そして、劣勢な言語を母語とする集団の構成員が優勢な言語を習得し、二言語話者になることが多くみられてきた。 カナダは、複数の言語集団が居住する地域の一例であり、具体的には、多数を占める英語を母語とする住民(英語系住民)に対して、フランス語を母語とする住民(フランス語系住民)が少数言語集団として存在してきた。その当然の帰結というべきか、カナダでは言語社会研究が非常にさかんであり、地理学はそこに一定の地位を占めている。そして、言語の社会的側面に関心を寄せる地理学的研究を意味する地言語学(geolinguistics)という名称も、人口言語学(demolinguistics)と並んで一般的になりつつある。 ところで、英語系住民が多数を占めるカナダにおいて、あるいは南の巨人アメリカ合衆国とあわせれば英語が圧倒的に優勢な北アメリカにおいて、フランス語系住民が8割以上を占め、1970年代よりフランス語のみを州の公用語とするケベック州はかなり特殊な存在である。そこで、ケベック州に居住する英語系住民は国家スケール、あるいは大陸スケールでは圧倒的多数派ながら、州スケールでは少数派という複雑な立場におかれている。それでも、「静かな革命」とよばれる1960年代の政治的・経済的・社会的変化と、それに続くカナダからの独立派政党の台頭までは、数の上では少数ながらも、英語系住民の地位が脅かされることはなかった。というのも、カトリック教会の強い影響力の下で、フランス語系エリートが政治を支配し、当時のカナダにおける経済の中心地モントリオール(モンレアル)に住む英語系エリートが経済を掌握するというすみわけがなされていたからである。モントリオールの英語系エリートがいかにフランス語を無視できたかということは、1958年にモントリオールのダウンタウンに建設された鉄道会社系の高級ホテルが多くの反対を押し切って「クイーンエリザベスホテル」と名づけられたことからもうかがわれる(Levine 1990)。しかし、カナダからの独立を目指すケベック党が勢力を強め、ついに政権を奪取してフランス語の一言語政策が強硬に進められるようになった1970年代後半以降、大企業の本社のトロントなどへの移転が相次ぎ、それに伴って英語系住民のケベック州からの流出が顕著にみられた。そのため、2001年センサスによればケベック州において英語を母語とする人口はわずか7.9%にすぎない(単一回答のみ)。そして、現在ケベック州に居住する英語系住民は、とくに若年層を中心にフランス語を習得して二言語話者となる場合がふつうになりつつある(大石 2003)。ケベック州の英語系住民に関する研究は、さまざまな分野においてかなりの蓄積がある。しかし、英語系住民がケベック州の言語環境にどのように適応してきたのかは十分に解明されているといえない。そこで本報告では、報告者が実施した聞き取り調査に基づいて、モントリオールにおける人口言語学的状況と英語系住民の生態を明らかにすることを試みる。
  • 地理的要因を考慮して
    河野 仁志
    セッションID: 209
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
    会議録・要旨集 フリー
    中国の貧富の格差が大きな問題となっているのは周知の事実である。特に農村の貧困、失業、東部と西部の地域格差、都市の貧富の格差など、問題の切り口によって視点は違うものの、中国の地域格差とは主に「東部」「中部」「西部」の格差をいうのが一般的である。中国の31行政区の統計数値を分析していくと、豊かな東部と貧しい西部という周知の事実も明白になるが、豊かといわれる東部でも、2004年の1人当たりGDPで東部地域内を比較すると、 1位の上海市は55,307元、最下位の海南省は9,450元であり、上海市の1人当たりGDPは海南省の5.9倍である。地理的にも1,700km近く離れており、気候も温帯と亜熱帯という具合に大きな差異があり、東部として一括りで見るには難がある。1人当たりGDPからすると海南省や広西壮族自治区は、西部に属する方がより現実の経済状況や生活状況に適合すると考える。これらの状況を考慮しつつ、既存研究と中国の最新の統計数値をもとに、新たな中国の地域区分を提案する。これをもとにした、地域間や省間格差の現状と推移を報告する。地域間や省間の格差を統計数値で比較する場合、最も頻繁に用いられる指標は1人当たりGDPである。このほかにも、1人当たり財政支出、財政収入など、1人当たりの数値で格差を比較することが多い。しかし、この比較には、1人当たりの数値と人口が線形関係にあるということが前提になっている。実際の統計数値分布は、傾きが一定でなく、上・下に凸の指数関数的分布を示すことが多い。上に凸の指数関数的分布であると、人口が少ない省が過大に評価される。例えば、日本の1人当たり公共事業費の上位には人口の少ない島根県、鳥取県などが入っている。このような状態を是正するために、考案されたものに「回帰偏差値」がある。回帰偏差値とは、人口の対数を独立変数、1人当たりの統計数値の対数値を従属変数とした単回帰式の標準化残差を10倍し、50を加えたものである。本報告では、2004年の省間統計データの回帰偏差値を計算後、その結果を主成分分析し、省間格差の現状を検討した。主成分分析の結果と1人当たりGDPの値には、若干のずれがあるものの大きな相違はなく、1人当たりGDPは省間の格差の指標として有効であることが分かった。前節までの結果から、中国の地域区分を従来の3区分から表1のような10区分とすることを検討した。この区分により、2004年における各種統計指標による地域間格差、1952年から2004年までの格差の推移をタイル尺度により計算した。その結果、従来の3地域区分とは異なる格差の状況と推移を確認できた。
  • 出稼ぎに伴う移動と技術の伝播の事例から
    雨森 直也
    セッションID: 210
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    I 問題の所在今日,グローバリゼーションが世界の諸民族をも覆い始め,各々の民族は,独自の慣習を失いつつある.一見して民族間の違いが,明確ではなくなりつつまる.反面,世界各地では少数民族の動きが顕著になりつつある.こうした民族の没個性化が進む時代に,世界各地の社会的弱者である少数民族が,どういったメカニズムで,自己と他者である多数(支配)民族との間に境界を保つのかという点は,国民統合や多様性の維持という点からも非常に興味深い.さて,今回の事例とするペー族は,雲南省大理白族(ぺーぞく)自治州(以下,大理州)に住んでいる.「壩子(パーズ)」と呼ばれる盆地に住むペー族は,明代を中心に移住してきた漢族との接触の歴史が長く,加えて,生業形態も似ていたために,漢族からの文化的な影響を最も多く受けてきた民族の1つである.上記の背景のもと,改革開放後(1980年頃)から,大理州のペー族は,大理壩子,鶴慶壩子などの盆地に住むものを中心に出稼ぎを始めていた.彼らの出稼ぎは,民国期以前(から1949年)から大工や石工などの技術を用いた伝統的な出稼ぎだけではなく,現在では,新しい職種の出稼ぎにも進出している.そこで,本発表では,迪慶藏族(チベットぞく)自治州徳欽県城において出稼ぎを行っている鶴慶壩子出身のペー族と,彼らが新しく始めた出稼ぎの1つである自動車修理業をとりあげる.その技術の伝播とこれらのペー族の移動とその意味から,ペー族の漢族に対する民族境界の維持の仕方について考察することを目的にする.
    II 漢族からペー族への自動車修理技術の伝播1980年代前半の雲南省大理州では,日本へのマツタケ輸出のラッシュであった.しかし,1987年には大理州政府が統制を強め,鶴慶県のペー族の一部は,徳欽県にマツタケを買い求めるようになった.その後,徳欽県でも県政府の関与が強くなり,バイヤーの1人が,ミャンマーでの出稼ぎが嫌で帰ってきた自分の友人2人と共に,漢族の自動車修理工の徒弟となった.その後,1990年代後半になると,次々とペー族が同業を開業した.なかでも初期に開業したペー族は,その多くが鶴慶壩子出身の漢族から技術を得ていた.現場の1つであったバスターミナルが、その拡張の際に、現場を追われたことで,ペー族の自動車修理工は,漢族の師傅(親方)から独立し,自ら経営をはじめ,その後,彼らは,同じペー族のものを自らの徒弟として雇い,現在にいたっている.
    III 藏族居住地区(藏区)に向かうペー族徳欽県城の自動車修理業は,2005年から明らかに不況である.徳欽県城で店を構えるペー族は,現在のところ,他地方に移動をしていない.しかし,彼らの1人は,同じく藏区である四川省甘孜藏族自治州理塘(リタン)県城に移動することを真剣に模索していた.結局,彼は理塘まで市場調査まで行ったが,実現はしなかった.この他にも,徳欽県城で技術を学び,その後,漢族の多い臨滄市に出稼ぎに行くものの,2年で徳欽県城に戻ってきたものがいる.
    IV まとめ以上のことから,ペー族は,最初の技術は漢族から習得した後,自らの民族の紐帯を利用して師弟関係を構築している.また,彼らが望みさえすれば,漢族と接触がより多い地域に出稼ぎが可能にもかかわらず,彼ら自身が,積極的に藏区を出稼ぎの対象としている.こうしてペー族が,漢族との接触を限定的にとどめ,自ら藏区に向かう行動は,漢族とやはり他者である藏族の間にあり,自らが「ペー族」であるという認識を,より強くすることになる.こうした行動は,これからも漢族との民族境界を維持し続けることに寄与するに違いない.
  • 河北省安国市を事例に
    王 岱
    セッションID: 211
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    I 研究の目的
     1999年以降,中国では,農民所得の向上を目指すとともに,WTOの加盟に対応するための農業構造調整が実施されてきた.農業構造調整下での農業生産部門において,主に穀物を中心とした食糧作物から,より高い収益をもたらす商品作物への転換調整が急速に展開されてきた.国内の転換調整とともに,グローバリゼーションに対応すべく農産物および関連製品に対する品質管理の強化も実施されてきた.それらによって,農作物の生産が多大な影響を受けるとともに(王,2005),加工及び流通過程にも変化が現れた.
     本研究は,河北省安国市における生薬流通業を取り上げ,中国における生薬流通構造の変容,とりわけ農業構造調整下における生薬流通の実態解明を目的とする.

    II 中国国内における生薬流通構造の変容
     1954から1984年までの中国において,生薬の専売制が実施され,国営「生薬公司」による生薬流通の統制が徹底されていた.1984年以降,生薬の自由売買が認められ,取引の場として「漢方生薬専業市場」(以下「専業市場」と略す)が設置された.生薬流通における「生薬公司」の統制構造は次第に破綻し,仲介業者による「専業市場」をつなぐ流通ネットワークが形成された.
     2006年現在,中国国内において,中央政府の認定を受けた「専業市場」は17箇所存在する.そのうち,河北省安国市にある「東方薬城」と長江中下流域に位置する「亳州市場」の規模が最も大きい.「専業市場」は国内における生薬の流通拠点として,市場価格の形成など重要な役割を果たしている.また,沿海,辺境に位置する「専業市場」は国内外の生薬市場をつなぐ架け橋にもなっている.

    III 安国市における生薬流通業の発展と現状
     建国以前から,豊富な生薬資源,高度な加工技術,便利な交通条件などに恵まれ,安国市における生薬流通業が発達していた.生薬の専売制が廃止されてから,1985年に,国内最初の「専業市場」が建設された.また,急速に拡大する取引に対応するため,1994年に,当時,中国における最大面積の「東方薬城」が開業した.「東方薬城」は北京・天津大都市圏にある多くの製薬企業の原料調達地となり,国内の生薬流通において集散機能を果たしてきた.
     2000年,WTO加盟に向けて,グローバリゼーションに対応すべく品質を強化する法規が新設され,生薬流通事業を経営する許認可条件,申請手順などが明確化された.安国市の生薬仲介業者は経営を維持するため,生薬の出荷・運搬・貯蔵の各過程における環境整備,人材確保などを推進し,製薬企業と供給契約の締結も積極的に行ってきた.一方,小規模で資金力のない業者は,厳しい認可基準に対応できなくなり,業務停止が命じられた.

    IV まとめ
     中国における生薬流通構造の変容は,国内外の要請による農政転換の影響が大きい.とりわけWTOの加盟に対応した農業構造調整が,安国市における生薬流通業の経営水準の高度化をもたらしたが,小規模な仲介業者は厳しい経営環境に追い込まれた.国内の政策転換のみならず,グローバリゼーションは安国市における生薬流通業の変容を加速する要因の1つになっている.

    文献:王岱. 2005.「農業構造調整下における中国河北省鄭章村の生薬生産」.『日本地理学会発表要旨集』NO.69:71.日本地理学会.
  • インドの民族系自動車企業を中心に
    友澤 和夫, 宇根 義己
    セッションID: 212
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.研究の背景と目的 中国や東南アジア,そしてインドなどのアジア各国における工業化には,外資企業が重要な役割を演じていることが多くの論者により強調されてきた.こうした研究の中では,ローカル企業は,外資企業の進出により新しく生まれたビジネス機会に乗じて,サプライヤーや関連企業(あるいは合弁相手)として成長したとみなされ,工業化の主役としての位置づけは与えられてこなかった.外資企業が製造する製品をグローバル水準にあるものとするならば,ローカル企業がそれに対抗するためには,製品を開発する技術(開発技術),製品に組み込む技術(製品技術),生産する技術(生産技術)をその水準で確立する必要がある.通常こうした技術は,発展途上国工業化の文脈では,外資企業とローカル企業の合弁事業等において,前者の技術的指導の下に移転されると考えられており,ローカル企業単独でグローバル水準にまで技術を高めるのは容易ではないといえる.ところで,発表者が継続的に調査を実施しているインドをみると,ローカル企業の中にも一定の市場シェアを獲得し,外資企業との競争に勝ち残っているものが存在する.たとえば,乗用車部門におけるタタ・モーターズ社や自動二輪車部門のバジャージ・オート社である.これらの企業は,いかにして外資企業と競争できる技術力を獲得しているのか,本発表はその技術キャッチアップ戦略を明らかにすることを目的とする.2.インドのローカル企業における日本式生産技術の導入 現在のインドの生産現場においては,外国からの生産技術・生産管理方式の導入が積極的に進められている.その一端をTPM(Total Productive Maintenance)を例に示す.TPMとは,(社)日本プラントメンテナンス協会が提唱する工場生産設備のメインテナンス法であり,生産性の改善・向上をもたらすものとされる.当初は日本国内中心に普及していったが,海外でも注目されることとなり,インドにおいても2000年以降になって導入する企業が急増している.同協会と契約を結ぶと,そこからTPMの資格をもったインストラクターが派遣され,生産設備・ラインに立ち入った指導がなされる.2005年までにTPMを導入した95件(受賞事業所・累計)をみると,ローカル企業か,日系以外の外資とローカル企業の合弁企業に限られ,日系企業の実績がない点に特徴がある.TPMに代表される日本の生産技術およびそのコンサルタンシーの活用により,インド企業は生産ノウハウの向上を図っているのである.3.タタ・モーターズ社のインディカプロジェクト つぎに個別の企業の事例を示す.タタ・モーターズ社(前身はTECLCO社)は,1980年代まではトラックやバスといった商用車生産を専業とする自動車企業であった.1990年代の自由化政策によって製造分野規制が緩和されたことにともない,タタ財閥の総帥ラタン・タタは単独で乗用車部門に進出することを決定した.その際の謳い文句は,インド人の手によるインド初の国産乗用車(インディカIndica)の開発であったが,それを生産する技術をいかにして確立したのであろうか.まず,インディカの基本設計はイギリスに本拠を置くデザイン企業に,ガソリンエンジンの開発はオーストラリアの企業に委ねられた.インディカの生産工場はマハーラーシュトラ州プネー県ピンプリに立地するが,そこには日産オーストラリア工場から移設(2000万ドルで購入)された生産ラインとロボットが導入されていることが特記される.これは,乗用車の生産設備を低コストで獲得できたことに加え,そこに体現されている生産技術も同時に入手したことを意味する.さらにインディカプロジェクトで注目されるのは,乗用車部品の開発・生産体制の新構築である.乗用車の生産には,当然ながら自動車企業のみならず部品企業にも高い技術力が求められる.タタ・モーターズ社はインディカの部品事業を担う子会社としてTACO社を創設し,さらにそこと外資企業との間に合弁会社(14社)を設立させ,基幹部品の開発・生産を委ねた.これにより海外の部品企業の技術を導入しながら自社の技術力を急速に向上させ,主要部品の国産化を実現した.このように同社は,外資企業の設備,生産技術あるいはそこでの経験を持つ人材を活用しながら,インド初の「国産車」の開発・生産技術の確立を推進したのである.
  • 有機農業の展開による社会的・経済的インパクトを評価するために
    河本 大地
    セッションID: 213
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    I.背景と目的
     現在、フードシステムの産業化・グローバル化が顕著となる中、それに対抗するオルタナティヴな農や食のあり方を追求する運動が盛んに行われている。有機農業はその典型のひとつであり、環境・社会・経済の各側面からみて妥当かつ持続可能な農業として、多くの問題解決に資するとする理念的期待がなされている。特に途上国においては、有機農業に対して、貧困緩和など農村開発の側面で大きな期待が寄せられている(例えばUNESCAP, 2002;FAO, 2003;Ramesh, 2005)。こうした現状を踏まえ、筆者は先にスリランカを事例として途上国における有機農業の展開とそのメカニズムの全貌を把握する研究を行った(河本 2006)。その結果、スリランカにおける有機農業の展開は、アグリビジネスおよびNGOを主たるアクターとして先進工業国との強い関係性を持ちながら進んでいるが、そこには一方的な従属ではなく、内発性や関係アクター間の連携が一定程度存在することが確認された。その後筆者は、スリランカにおける有機農業の展開のうち、アグリビジネスやNGOが小農のグループを組織して有機農産物産地を形成しているパターンについて、ローカル・スケールの産地における社会的・経済的インパクトを解明するための研究を進めている。具体的には、先駆的に小農部門における有機農業の取り組みを行ってきた企業やNGOによる有機農業の展開が、食料安全保障、社会的公正など途上国農村における重要な問題にいかに影響しているかを解明したいと考えている。本発表では、上記の目的を達成するためにどのように農村調査手法の開発と実践を行ったかを報告する。
    II.調査手法の概要
     現地調査は2006年5月27日から6月28日の約1ヶ月間実施した。研究対象農村の選定には紆余曲折があったものの、最終的に現地でキャンディ県(Kandy)のムルガマ村(Mulgama)を選定した。また、シンハラ語およびタミル語の通訳として、ペラデニヤ大学農学部のDr. Gamini Hitinayake(アグロフォレストリーおよび農村開発が専門)を通じ、同学部の学生を雇用した。そして、面接調査を中心とする全戸悉皆調査により、農家経営や食料入手の状況、階層、ジェンダー、有機農業の推進側アクターや有機農業に対する意識・行動などを、有機農産物栽培農家と慣行農産物栽培農家や非農家との比較等を通じて把握した。その際、以下の4つの調査手法を組み合わせた。ひとつは、広島大学総合地誌研究資料センター(2006年4月から広島大学総合博物館に移行)が1960年代から蓄積してきたインド農村地域調査の手法である。本研究は、この一連のインド調査・研究とは別に筆者が単独で行っているものであるが、対象農村の全戸悉皆調査を基本とする体系的な調査手法として、学ぶべき点が多いと考えた。藤原ほか(1987)およびその後の調査で用いられた手法および考え方は、面接調査票の作成等に際し非常に参考になった。第二に、筆者が宮崎県綾町において実施した、有機農業の展開と農家の受容に関する調査手法(河本 2005)をモデル的に適用した。第三に、国連「ミレニアム開発目標」のための指標のいくつかを、筆者の目的意識に沿うものとして援用した。第四に、対象農村およびその周辺の地図化に際し、GPSを援用した。
    《引用文献》河本大地 2005.有機農業の展開と農家の受容—有機農産物産地・宮崎県綾町の事例—.人文地理 57-1: 1-24.河本大地 2006.スリランカにおける有機農業の展開とそのメカニズム.地理学評論 79-7: 373-397.藤原健蔵・村上 誠・中山修一・米田 巌編 1987.『海外地域研究の理論と技法—インド農村の地理学的研究—』広島大学総合地誌研究資料センター. FAO (Food and Agriculture Organization of the United Nations) 2003. Organic Agriculture, Environment and Food Security. Rome: FAO.Ramesh, P., Singh, M. and Rao, S.A. 2005. Organic Farming: Its Relevance to the Indian Context. Current Science 88-4: 561-568.UNESCAP (The United Nations Economic and Social Commission for Asia and the Pacific) 2002. Organic Agriculture and Rural Poverty Alleviation: Potential and Best Practices in Asia. Bangkok: UNESCAP.
  • 貝沼 恵美, 田中 耕市
    セッションID: 214
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1. はじめに
     本研究は、フィリピンのアキノ政権で制定された地方政府法によるインフラ投資政策の分権化が、農山村住民に与えた影響を分析することを目的とする。
     同国において1950年代以降、地方分権は開発および民主化の推進する戦略として用いられてきた。1980年代前半までは執行権限の委譲を中心としていたものであったが、1980年代中葉以降は意思決定権限をも含めた分権化政策が推進されるようになった。そしてその中核を形成しているのが1991年地方政府法(The Local Government Code of 1991、以下LGC1991)であり、これは1992年1月より施行されている。同法に基づき、道路の維持管理に関する権限が中央政府から地方政府に移管されることとなった。すなわち、同法の施行以前は公共事業・高速道路省(Department of Public Works and Highways)において国道のみならず地方道路の維持管理までも行われていたが、1992年以降は州道、市道、町道、バランガイ(村落)道はそれそれの自治体が直接管理ならびに事業の実施を行うようになったのである。
     本研究では、以上の道路行政における分権化政策が、予算規模、プロジェクト優先度あるいは維持管理主体の変化を通じて、地域住民の生活にいかなる影響を及ぼしたのかを検討する。さらに対象地域を複数設定することにより、分権化の影響の地域的差異とその要因について考察する。

    2. 研究対象地域
     事例地域は、ルソン島北部に位置するコルディリエラ行政地域(Cordillera Administrative Region)に属するBenguet州のLa Trinidad町、Bakun町、Kapangan町、Ifugao州のAlfonso Lista町とHungduan町、Hingyon町とした。2000年現在の人口はLa Trinidadが67,963、Bakunが12,213、Kapanganが18,137、Alfonso Listaが21,167、Hungduanが9,380、Hingyonが9,769である。

    3. 研究方法
     2005年9月より10月まで、現地調査を実施した。LGC1991の施行により、財政の委譲も行われた。そこで委譲に伴う財政構造の変化を把握するため、各州政府および町役場より入手した同法施行以前と施行後の歳入および歳出データにて財政規模の変化、地域配分等を検討した。また、各町に居住する農家へ家計、耕作作物およびそれらの出荷先の変化の有無、生活環境の変化等について質問表をもとに聞取り調査を行った。調査実施世帯総数は80である。

    4. 結果
     大部分の自治体が、LGC1991の施行で道路整備における優先順位を自ら決定することが可能になったことを高く評価した。同法の施行以前は、地域の実情を把握していない中央政府が一元的にプログラムを運営し、早急なメンテナンスの必要性が低い道路に投資がなされることも多かった。また中央政府からの予算配分に際しても、DPWH以外の省庁でそのプログラムに関する審議が行われ、かつ手続きに時間を要したため、実際に自治体に資金が支出されるのに数年かかることも珍しくなかった。しかしながら1992年以降は、過渡期に多少の混乱があったものの、迅速に予算が支出され、各自治体でプログラムを決定できるため、より地域住民の生活環境を改善しうる道路や火急な対応が必要な地域に配分することが可能になった。
     他方、予算規模の問題により、その満足度は一様ではない。また、農業活動においても道路網および道路の舗装状況の変化に伴い、より規模の大きい市場への出荷が可能になったことを通じて利便性および生活水準の向上を評価する町がある一方で、LGC1991の施行前後でほとんど生活に変化がないとする町もある。この差異は、主要幹線へのアクセスに不可欠な域内道路の有無や道路メンテナンスの内容、あるいは地形条件等によるところが大きい。

    5. 考察
     陸上交通への依存率が著しく高いルソン島において、道路の整備は農家の生産活動に直接的な影響を与える。現行制度においては、その予算は各地域の人口と面積を基に算出される内国歳入割当(Internal Revenue Allotment)に大きく依拠せざるを得ないのが実情である。したがって、山間部のような人口過疎地域における道路予算は、都市部に比しても小規模なものにならざるをえず、効率的な維持管理を困難にしている。また人的資源や蓄積したノウハウにも自治体間で差異がみられ、このことが新たな地域格差を創出している。

    <付記>
     本研究は、福武学術文化振興財団平成16年度研究助成「フィリピン農山村地域における経済発展メカニズムの研究!)地方分権化に伴う新たなインフラ投資政策の検証!)」(研究代表者:田中耕市)による研究成果の一部である。
  • 神谷 浩夫
    セッションID: 215
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.問題の所在
     グローバル化の進展によって,より安価な賃金コストの地域に生産拠点を移転させ,グローバル市場において優位性を確保しようとする動きが活発になりつつある.こうした生産拠点の海外移転は労働力が非可動的であることを想定している.もちろんこれは,他の生産要素に比べた相対的なものである.実際には,地域間で賃金格差が大きい場合にも労働力は移動する.けれども,労働力の国際移動は素材や製品の輸出入と比べると規制が大きい.
     東南アジアへの日本企業の進出は1970年代ころから活発化し,それにともない海外へ赴任する日本人の数も増大していった.海外で働く日本人の多くは,男性従業員が妻と子供を同伴するスタイルをとっていることが多い.一方1990年代半ばから,海外で働くことが20代の独身女性の間でブームとなっている.とりわけ,香港やシンガポール,上海など東南アジア諸国で働く女性が増加しているものと思われる.そこで本発表では,東南アジアで働く日本人女性に着目し,シンガポールで働く独身女性が増えた理由を検討する.

    2.分析の手順
     企業の海外進出にともなう人口移動の実態を明らかにし,海外で働く日本人独身女性が増えた理由を検討するためには,その前に日系企業の進出状況が東南アジアでどのように進んだのかを明らかにしておく必要がある.
     次に,東南アジアに滞在する日本人の動向を把握することで,シンガポールにおける日本人女性が就いている職業に関して予察的な考察を試みる.海外で働く日本人に関しては,労働力調査といった国内で利用可能な労働力に関する各種統計が利用できないため,多面的に推測を積み重ねる方法をとらざるを得ない.
     最後に,東南アジア諸国において日本人が働く際に大きな影響を与える就労ビザの発給方針についても整理しておく.

    3.結果の概要
     地域オフィスが形成される過程やその役割に関して考察した鍬塚(2001)は,シンガポール地域オフィスは販売管理業務あるいは現地の合弁製造会社に対する本社サービスの提供にあることを明らかにした.世界都市としてのシンガポールの機能はこうした中枢管理機能に負っている部分が大きく,日系企業の事業所もほぼこうした原理に則っている.日系企業の進出状況を業種別の現地法人で見てみると,シンガポールでは製造業が4分の1を占めるに過ぎないのに対して,マレーシアやタイでは製造業がほぼ半数を占めている.
     図1は,シンガポールにおける長期滞在者の推移を示したものである.本人(男)の人数は,日系企業の現地法人に勤務する駐在員の数に相当すると考えることができる.本人(女)の人数は,男性に比べると圧倒的に少ないことから,量的な面では家族を同伴する駐在員の人数に比べれば,シンガポールで働く(おそらく独身の)日本人女性はごく少数である.それでも,1990年代に入ってから増えていることが読み取れる.
     その他の検討結果については,当日に報告する予定である.

    文献
    鍬塚賢太郎 2001. 日本電機企業の東南アジア展開にともなうシンガポール地域オフィスの形成とその役割. 地理学評論 41A-3, 179-201
    Thang, L. L., MacLachlan, E., and Goda, M. 2002. Expatriates on the margins: a study of Japanese women working in Singapore. Geoforum 33, 539-551.
  • 中澤 高志
    セッションID: 216
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.問題の所在
     グローバル化が進展する中で,モノやカネの流れと並んで,ヒトの流れに関する研究も盛んに行われている.しかし「海外で働くこと」に関するわれわれの理解は,いまだ不十分である.というのも,従来の研究ではグローバル化という一般的プロセスに力点が置かれる場合が多く,その場合,海外で働く人口の増加はグローバル化の進展度合いを示す一指標に過ぎなかったからである.海外で働くことの経験を個人のライフコースの中に位置づけ,その意味を考える研究が必要である.また,多国籍企業の行動がグローバル化や世界都市間のネットワーク形成の原動力と理解されてきたため,多国籍企業の人事異動と関連付けて,男性の海外就業者の国際移動を扱った研究が多かった.これに関してKofman(2000)は,従来の研究からこぼれ落ちてしまっていた女性を対象とする必要性を訴えている.こうした論点を踏まえ,本発表は,主として海外で働く日本人女性の経験を対象とするものである.本発表では,まず,海外就職情報誌に描かれた「海外で働くこと」の分析結果を提示する.海外就職情報誌は,海外での就業を経験する人の多くが接するメディアである.それは,「海外で働くこと」に対するイメージが構築される場であるといえる.したがって,その内容を分析すれば,広く流布しているであろう「海外で働くこと」がいかなる性質を持ち,どのように構築されているのかを把握することができる.しかし情報誌に描出された「海外で働くこと」は,「海外で働くこと」の経験そのものではない.情報誌は特定の読者像を想定しており,読者が求めている種類・性質の情報を発信するからである.そこで,シンガポールで働く日本人女性に対する現地調査とThangらによる先行研究(Thang et al 2002, 2004など)の知見を,情報誌における「海外で働くこと」に対置し,両者のずれについて考察する.
    2.研究方法
     雑誌の内容分析に用いるのは,「国際派就職事典」(アルク,1999から2005年度版),「海外で働く」(アルク,2002年度版),「World Wide Job」(アルク,vol.1,2,2005年)である.雑誌の内容分析は,客観的な事項の分析と文脈に即した分析に分けられる.前者では,インタビュー記事対象者の属性を文脈から切り離して定量的に分析し,海外就業者がどのような人たちであるかを近似的に示す.後者では,海外就職情報誌のインタビュー記事が作り上げている「海外で働くこと」を,文脈に即して解釈するものである.現地調査は2006年3月,7月,8月にシンガポールで実施した.人材紹介会社や商工会議所の紹介,個人的な知人などを通じて協力者を募り,シンガポールで働く日本人女性に対してインタビュー調査を行った.3.情報誌インタビュー記事対象者の属性 結果の詳細は発表に譲り,情報誌のインタビュー記事対象者の属性を簡単にまとめておく.取り上げる海外就職情報誌には,1冊当たり15から20本ものインタビュー記事が掲載されている.多くは本人の写真入りで,年齢や学歴,出身地などが細かく記されている.インタビュー記事に登場するのは,男性が57人,女性が99人であり,男女ともほとんどは現地採用(日系企業含む)である.海外で働き始めたときの平均年齢は,女性が約27歳に対して男性が約29歳,現在の年齢は女性が約31歳,男性が約33歳である.男女とも高学歴層に偏っており,特に女性では大学などで語学を専攻していた者が目立つ.また,女性の過半数は留学経験者であり,留学先はほとんどが英語圏である.現在働いている場所も,英語圏が圧倒的に多い.このことから,情報誌における「海外で働くこと」とは,おおむね英語を使って海外で働くことであると理解できる.
    文献 Kofman, E. 2000. The invisibility of skilled female migrants and gender relations in studies of skilled migration in Europe. International Journal of Population Geography 6, 45-59.Thang, L. L., MacLachlan, E., and Goda, M. 2002. Expatriates on the margins: a study of Japanese women working in Singapore. Geoforum 33, 539-551.Thang, L. L., Goda, M., and MacLachlan, E. 2004. Challenging the life course: Japanese single working women in Singapore. In Old challenges, new strategies: women, work and family in contemporary Asia. Thang, L. L. and Yu, W. H. eds. 301-322. Brill Publisher, Leiden.
  • 由井 義通
    セッションID: 217
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.問題の所在経済のグローバル化の進展は,労働力の国際的な移動をもたらせた.企業活動は国際的に展開し,それに伴って駐在員として,あるいはその家族の随伴移動を生じさせながら海外勤務者が増加していることは容易に想像できる.また,近年では海外就職に内容を特化した就職情報誌が刊行されるなど,就職先として海外を選び,自らの意志で「海外で働く」ことを選択することが珍しくなくなっている.このような国際的な人口移動の内容に関しては,まだ十分な検討がなされているとはいえない.1994_から_95年に日本人の海外就職ブームが起こったとされるが,それはホンコンでの就職がマスコミなどで取り上げられたことで火がついた.当時,日本における深刻な景気後退に伴う就職の困難さも海外での就職に目を向けさせたといえる.また,海外の日系企業においても,駐在員を減らし,現地採用者への切り替えたりすることによってコスト削減を図るところが出てきた.しかしながら,海外就職は就労ビザ取得の制約が大きく作用するため,専門的技能や知識などをもった労働者しか就労ビザの発給をしない欧米諸国では就労することは困難である.そのような状況のなか,シンガポールでは4年制大学卒業者であれば比較的容易に就労ビザを取得することができるうえに,英語で仕事ができることや治安が良いことなど,海外就職希望者にとって好条件がそろっている.それに加えて,受け入れ側となる企業においても,東南アジア全体を統括するリージョナルセンターとして機能を拡張している日系企業やそれらとの取引の多い外資系企業が,日本語を話すことができる就業者を求めている.また,上記のような経済的背景とは違った観点から海外就職者に特徴的な現象を報告したThangほか( 2002, 2004)の先行研究がある.それらの研究では,シンガポールでは多くの日本人女性が就労の機会を得ており,彼女たちが海外就職を希望した理由が日本の雇用状況や就業における女性の地位のアンチテーゼ的な意味を持つことや,日本人女性にとって海外で働くことの意義,海外就職の際の求職活動などが詳細に報告されていた.海外勤務を求めて人材紹介会社に登録する日本人の約80%が女性で,彼女たちの大部分が人材紹介会社の求人情報を利用して求職活動をしていることから,本研究は,海外で働く日本人女性の就労と生活を明らかにする調査とリンクさせ,海外就職における人材紹介会社の役割に関する調査を実施した.本発表はその研究成果について報告する.2.研究方法人材紹介会社への聞き取り調査は,2006年2月に日本国内で海外への人材紹介をしているJ社本社,2006年3月と8月にシンガポールでC社,J社,P社,T社に実施した.上記の聞き取り対象の人材紹介会社は,日本商工会議所や日本シンガポール協会の紹介などを通したもので,シンガポール内では大手と中堅の日系人材紹介会社である.併せて人材紹介会社や研究グループの知人の紹介などによって,シンガポールで働く日本人女性に対してもインタビュー調査を行った.3.シンガポールの人材紹介会社日本国内の大手人材紹介会社の大部分は,シンガポールにオフィスを置いている.転職行動の盛んなシンガポールには現地資本や外資の人材紹介会社が数多くあるが,日系人材紹介会社は,シンガポールやその周辺国の日系企業や外資系企業への現地採用日本人社員の人材紹介,第二に日系企業の現地採用外国人(日本語の会話能力があるシンガポール人やマレーシアの中国系)を主たる業務としている.日本企業が人材紹介会社を通して人材を募るのは,人材選定の作業を人材紹介会社に任せることができるからである.なぜなら,人材募集の広告をシンガポールの新聞等で行う場合,多数の応募があるため,人材選定のスクーリングを人材紹介会社に依存せざるをえないからである.4.人材紹介会社の求人情報一部を除いて人材紹介会社の求人情報は,web上で公開されている.本研究では,J社のweb上に公開されている求人情報について国別に集計した結果,タイやインドネシアでは製造業の求職情報が大部分を占めるのに対して,シンガポールでは職種では営業職,IT関連のカスタマーサービスやSE,事務職,サービス業など多様な雇用があることが明らかとなった.
  • 小島 大輔
    セッションID: 218
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.はじめに
     観光流動の理解は,観光地の発展段階および観光地間の相互作用を明らかにする上で重要なものと考えられる.しかし,データの入手が困難であることなどの制限から,観光地流動に関する理論の展開および研究の蓄積は少ない.とくに,観光流動研究において,ツーリストの集中,分散に大きな影響を及ぼす旅行商品の空間的特性および展開過程についてはいまだ不十分である.
     観光流動を体系的に把握する試みには,「ある地域におけるツーリストの分配ネットワークを形成する,相互に関係し,依存または作用するツーリスト・リゾートにより構成されたもの(Oppermann 1994)」として,概念化されたツーリスト・システムがある.観光流動についての既存の研究は,出発地と目的地という枠組みで,移動距離との関係,または都市と非都市や第一世界と第三世界などの二分法で議論されることが多く,目的地間の関係について焦点が当てられることは少なかった.しかし,他の観光地との関係なくして,1つの観光地が成立している場合はほとんどない(Lue et al 1993).観光流動によって,各観光地は他の観光地との相対的関係を有し,それらは統合されたシステムの構成要素として機能している.このように,広域的な地域における観光流動について包括的に理解する際,ツーリスト・システムという概念は有用であると考えられる.また,観光流動は,観光地の発展と大きな関連性をもつものであり,ツーリスト・システムの変化および再編成から,観光地の趨勢を検討することも必要であると考えられる.
     日本人の海外旅行は,1964年の自由化以後,3度の海外旅行ブームを経て,2005年には1700万人を超える日本人が海外旅行を行っている.日本人の海外旅行の目的地のなかで,北米は常に最大の目的地の1つであり続け,その旅行商品は成熟していると考えられる.したがって,ツーリスト・システムの変化を検討するのに適切な事例であると考えられる.
     本研究では,日本人向け旅行商品を事例として,北米において形成されたツーリスト・システムの変化過程を明らかにすることを目的とする.

    2.データおよび研究方法
     本研究のデータには,リクルート社発行の海外旅行情報誌「AB-ROAD」に掲載されている旅行商品の情報を使用した.この雑誌は,1984年に創刊された月刊誌で,多くの旅行商品を掲載し,旅行商品のメディア販売という新たな流通チャネルの確立に大きく貢献した.また,これは従来のカウンター販売と比較して流通コストが低いことや,また紙面上で商品の比較が可能であることから,低価格な旅行商品の開発や旅行商品の多様化を促すこととなった.したがって,出版時に供給された旅行商品について網羅的に把握することが可能である.
     分析の対象とした旅行商品は,1985,1990,1995,2000年の1月号から12月号に掲載されたものである.これらの旅行商品の旅程について,宿泊地をノードに設定し,旅程における各ノードの機能,ノード間の関係を導出し,さらに,それらの経年的な変化について検討を行った.

    3.結果および考察
     分析の結果,アメリカにおいて,西部のサンフランシスコ,ロサンゼルス,東部のニューヨークを頂点とした観光流動の階層の変化,および上位階層のノードの機能が多様化した.カナダにおいては,トロントのゲートウェイ化によって,東部システムが上位階層への移行した.さらに,および秋季,冬季の観光地の出現とそのシステム化などが明らかになった.また,カナダのシステムの一部がアメリカのシステムから分離するといった,サブシステム間の関係の変化などが明らかになった.分析結果の詳細は当日示す.

    文献
    Oppermann, M. 1994.The Malaysian tourist system.Malaysian Journal of Tropical Geography 25(1): 11-20.
    Lue, C., Crompton, J.L. and Fesenmaier, D.R. 1993. Conceptualization of multi-destination pleasure trips. Annals of Tourism Research 20: 289-301.
  • 長崎県におけるカトリックツーリズム
    松井 圭介
    セッションID: 219
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    (問題の所在と研究目的) 現代は聖地創造の時代といえる。現代の聖地はもはや,神社仏閣や山岳の霊地といった宗教空間に限定される言葉ではなく,社会的に構築され続ける存在であり,我々の身の回りにはおびただしい数の聖地が存在している。こうした「聖地創造運動」の多くは,世俗的な原理の中から生み出されているものであるが,一方で元々宗教的な意味を有していた聖地がこうした世俗的な原理によって,新たな意味を付与され,その聖地としての性格を変容していく現象もみられる。なかでも「観光のまなざし」は場所の聖性を変容・再構築という問題を考える上で重要な手がかりとなる。本発表では,長崎県およびその一自治体である平戸市を選定し,カトリック教会群やいわゆる「キリシタン文化」と呼ばれる長崎の宗教的な歴史文化が,現代の社会経済的状況,特にツーリズムとのかかわりから,どのように観光資源化されているのかを検討し,宗教的な聖なる空間(例えばカトリック教徒にとっての信仰の場としての教会や儀礼の場としての聖人殉教の地)が新しい意味をもった観光地として構築されていく様態を検証する。
    (長崎県のカトリック)日本は全体で16の教区に分かれているが,長崎教区は信者数,信者率,教会数のいずれにおいても高い数値を示す。中でも信者率では,長崎教区では人口の4.43%がカトリックの信者であり,これは全国平均が0.36%であることを考えるといかにカトリック信仰が浸透した地域であるかわかる。主要な教会堂は,長崎市内のほか,外海地方,平戸島,五島列島を中心に沿岸部の集落に分布しており,これらの教会の多くは,弾圧をのがれ,これらの地方に移住していった潜伏キリシタンがキリスト教の解禁後に集落に教会を設立し,信仰の証として受け継いできたものである。ザビエルによる日本最古のキリスト教伝来の地である長崎は,近世期におけるキリスト教の弾圧・迫害,信仰の復活をもっとも強く体験した場所であり,こうした長崎の教会がもつ殉教と復活という歴史的背景に加えて,教会堂のもつ建築的な審美性と教会周辺の立地環境の調和性などさまざまな要素が折り重なって,長崎の教会群が人を惹きつける魅力となっているものと考えられる。
    (ホストの側の観光戦略)観光立件である長崎県の観光動態をみると,近年では観光入込客,観光消費額ともに低迷が続いている。長崎県の観光入込客は1976年に年間2,000万人を越えると,おおむね順調に増加し1996年には初めて3,000万人を突破したが,2000年以降は減少に転じている。さらにその内訳をみると観光行動の日帰り化が進み,宿泊観光者が減少している点に,観光業界の悩みがある。こうした日帰り化を反映して,観光消費額も低迷しており,1996年をピークにして消費額は低迷し,2004年は2,535億円と1992年の水準以下にとどまっている。修学旅行をはじめとする団体旅行客の減少の影響を大きく受けているといえる。
    (観光商品化されるキリシタン)このような観光の低迷は各自治体においても深刻な問題であり,同時に新たな魅力ある地域資源の創出が自治体の観光戦略として重要な課題となる。今回事例とした平戸市は恵まれた自然環境と豊富な史跡から県内でも有数の観光都市であるが,宿泊観光客を増やすための新たな観光資源の創出が強く求められている。このような状況下で,広域から観光客を誘引する可能な魅力的な観光資源として生み出されたのが「平戸キリシタン紀行」である。キリシタン紀行のコンセプトは,1550年フランシスコ・ザビエルの伝道により始まった平戸キリシタンの苦難に富んだ歴史を物語化して,観光客にユニークな歴史文化体験を提供することにある。単なる名所旧跡巡りに終わらないように地域史に通じたボランティアガイドが案内する。切支丹資料館では,殉教者の末裔にあたる子どもたちによる紙芝居の上演がなされ,キリシタン弾圧とその後のカクレキリシタンの歴史を体感した上で,参加者は殉教者の血でそまった根獅子の浜を案内されることになる。詳細は発表の中で触れるが,本発表では,信者にとって祈りの場であり聖なる空間である教会(聖地)が社会経済的,政治的,文化的,あるいは宗教的といったさまざまなコンテクストのなかで,新しい意味を付与される過程を検討したい。
  • 温浴施設の事例
    山登 一輝
    セッションID: 220
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.はじめに 近年のサービス経済化の進展とともに,人々の多様なニーズに応える様々なサービスを供給する施設が多く立地している。こうした変化は,新しいサービス業の拡大としてあらわれ,主なものではレジャー,健康,医療・介護,家事・育児,教育などに関連したサービス業があげられる。 こうした近年の傾向に対して,地理学のサービス業研究では従来の卸売業,小売業,金融・保険業といった研究のほかに,福祉や医療などに関連した研究も増加している。しかし,レジャーを産業として研究し,その実態を明らかにした事例研究は少なく,パチンコ,テニス場,遊園地などの研究が散見される程度である。 そこで,本研究ではレジャーに着目し,その施設の立地について明らかにすることを目的とする。事例として,近年増加し,都市における新たなレジャーとしての一面を強くしている温浴施設を取り上げる。 温浴施設とは一般的に温湯に入浴する施設を広く指すと考えられるが,本研究においては浴場を主体として休憩や休養,娯楽のための施設を備えたレジャー施設ととらえる。そうした場合,スーパー銭湯,健康ランド・センター,クアハウスなどと呼ばれている施設がこれにあてはまる。
    2.研究方法 調査は東京都区部においておこなった。東京都区部では近年新たな温浴施設の開業が相次いでいるが,一方で都市おける入浴施設として保健・衛生の役割を担ってきた銭湯(普通公衆浴場)は大きく減少している。 調査施設は東京都各区の公衆浴場台帳から抽出した。温浴施設の店舗・営業形態は多様であり明確な定義はないため,温浴施設の現状を把握する必要がある。そこで,最初に公衆浴場の営業許可分類から銭湯,風俗店を除いた「その他の公衆浴場(第2号)」について分析した。そして,その中から公衆浴場法における公衆浴場の類型「温湯等を使用し,同時に多数人を入浴させるものであって,保養または休養のための施設を有するもの」,「温湯等を使用し,同時に多数人を入浴させるものであって,健康増進を目的とするもの」に該当する施設を対象とした。これらの施設について立地とその経緯,店舗・営業形態に関する特徴について調査をおこなった。
    3.考察 東京都区部において温浴施設の立地は広い範囲でみられ,駅周辺の商業地域,臨海部の埋立地,ロードサイド,遊園地内,住宅地に立地している。そして,その立地経緯は従前の土地利用から,工場の跡地や駐車場などの活用,駅周辺の商業ビルにテナントとして出店,臨海部の埋立地の空地,スポーツ施設やプールなどとの複合といったタイプに分けられる。 近年の傾向として,都心周辺や臨海部に大規模・高価格の施設の立地がみられる一方で,郊外では低価格で大規模駐車場を備えた施設の立地もみられる。そして,立地は商業地域だけではなくレジャー施設の少ない住宅地にもみられ,温浴施設に着目した土地活用がおこなわれている。
  • 有馬 貴之
    セッションID: 221
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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  • 田中 絵里子, 佐野 充
    セッションID: 222
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    1.世界と日本の世界遺産
     世界遺産は,1972年の第17回ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)総会で採択された「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(以後,世界遺産条約)に基づいて,「世界遺産リスト」に記載(登録)された自然や文化のことである。世界遺産は,自然遺産,文化遺産,複合遺産の3種類に分類される。
     日本は1992年の世界遺産条約批准以降,着実に登録数を増やし,2006年7月1日現在13件(自然遺産3件,文化遺産10件)が登録されている。今後5から10年以内の登録を目指す暫定リストには,「古都鎌倉の寺院・神社ほか」,「彦根城」,「平泉の文化遺産」,「石見銀山遺跡」の4件が記載されている。いずれも文化遺産候補ではあるが,近年では「小笠原諸島」が自然遺産として暫定リストへの登録が期待されている。

    2.世界遺産になれなかった富士山
     富士山を世界遺産にしようとする動きは,日本において世界遺産への関心が高まり始めた1992年から始まった。美しい富士山を世界の宝にしようとする動きは,多くの賛同を得て署名活動や国会請願まで行われた。しかし富士山はユネスコに推薦するための国内選考であっさりと却下されてしまった。富士山のように美しい成層火山は世界中にたくさんあり,その固有性が認められないというのが大きな理由であった。
     世界遺産に登録されるためにはいくつかの登録基準が存在しているが,当時の日本人にはその知識が欠落していた,もしくはその認識に大きな隔たりがあったといえる。どんなに美しい対象物であっても,その固有性が認められなければ世界遺産とは認められない。したがって富士山はどんなに活動をしたとしても世界自然遺産にはなり得ないといえる。

    3.世界文化遺産へ登録目標を転換
     世界自然遺産になれず,暫定リストにも記載されていない富士山だが,近年では世界文化遺産での登録を視野に入れた動きがみられる。富士山自体は自然の山であるのに対して「文化遺産」の登録を目指すことに違和感を覚えるかもしれないが,これには登録基準に関する理由がある。
     1992年に文化遺産の一概念の中に「文化的景観」が加えられた。このうち「iii) 自然要素によって,宗教的,芸術的,文化的に強力な関係を持つこと」が富士山にも適合するのではないかという理由から「富士山を世界文化遺産に」という動きは具体性を持つようになった。実際に登録された例としては「トンガリロ国立公園」(ニュージーランド,1993年再登録)や「ウルル/カタ・ジュタ国立公園」(オーストラリア,1994年再登録),「ピレネー山脈/ペルデュ山」(フランス・スペイン,1999年再登録)などが挙げられる。特に第一号として登録された「トンガリロ国立公園」はマオリ族の聖地として知られ,山々が人々と自然とを結びつける宗教的に重要な山として認められた例である。最近の例としては「紀伊山地の霊場と参詣道」(日本,2004年登録)があり,古くから信仰があった富士山においても世界遺産登録の可能性が問われるようになった。

    4.富士山をとりまく問題点
     世界自然遺産から世界文化遺産へという発想の転換は,富士山をより一層世界遺産登録へ向けて前進させたようにみえるが,実際のところは難しい現状がある。それには,1)富士山の持つ二面性(聖地としての富士山/観光地としての富士山),2)山頂の所有権問題,3)周辺の土地利用状況などが挙げられる。
     富士山は古来より信仰の対象として崇められてきたが,それと同時に年間およそ20万人が訪れる観光地であり,裾野や周辺地域を含めた富士山観光は広く一般化している。この二面性が富士山を(場合によっては規制をともなう)保全もしくは開発を容易に行わせない一要因ともなっている。また山頂付近は聖地であり,浅間神社の私有地であるが,実際は境界線が不明確なため登記できずにいる。このことは自由な開発もしくは規制が容易ではないことを示している。さらに富士山周辺は住宅地,農耕地,自衛隊や米軍の演習場などに使用されており,バッファーゾーンを必要とする世界遺産の登録に際して地域を選定しづらい状況にある。
     世界遺産は対象物自体の価値だけでなく,それを取り巻く地域や保全体制の状態といった「環境」までもが評価対象となるため,これらの問題をどう克服していくかが,富士山が世界遺産を目指す際の今後の課題であるといえる。
  • 目崎 茂和
    セッションID: 223
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    日本神話の地理空間を風水学的に分析する。高天原・葦原中国・黄泉国などのほか、日本地理の国名など、陰陽五行八卦十二支などの風水構造による解明が有効である。日本の地勢風水は、中国・朝鮮の地勢・龍脈などで関連して、山陰・山陽の陰陽国分類のほか、日向・高千穂峰、出雲国地理の地名・神名など、統一的に分類がなされていることが判明した。
  • 信州遠山郷霜月祭りを事例として
    本多 健一
    セッションID: 224
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    日本において伝統的な行事とされてきた祭りは、現代の社会情勢変化にあわせて、従来のあり方を大きく変容させつつある。祭りの変容に関する研究は数多いが、本研究では先行研究の主流であった個別の祭りを対象とするモノグラフ的民俗誌を超えて、複数の祭りを射程とし、地域の特性と関連付けながら変容諸相を比較考察する。そして、それら相互の関係性も含めた祭りの維持運営システムの解明を目的とする。
    事例としてとりあげたのは、信州遠山郷(長野県下伊那郡上村および南信濃村)に伝わる、霜月祭りである。遠山郷は長野県南端に位置し、過疎化による人口減少や高齢化が進行している山村地域である。この祭りは、毎年12月の深夜に神社の舞殿に大釜を据えて湯を沸かし、その周りで様々な神事や舞などの民俗芸能が繰り広げられる湯立神楽が中心となっている。2004年度時点では11ヶ所で湯立神楽が執り行われているほか、戦後になってから中止され、神事だけに縮小されている集落が5ヶ所あった。本研究では、近世藩政村に基づき、明治時代初期に成立していた旧行政区を地域単位として設定し、これらの地域毎に聞取り調査と参与観察調査を行った。
    霜月祭りを維持運営してゆく条件は、熟練した担い手が十分に確保できるかどうかという人的要素が大きく、それに必要な人数は、最低20_から_30人程度とされている。そこでまず遠山郷の地域・集落の人口、世帯数や平均年齢などを把握し、次いでそれらと関連づけながら祭りの諸相を調査したところ、日程や時間帯の変更、保存会など祭りを執り行う組織のあり方、新しい担い手(子供、女性、新住民、外部ボランティア)の取込み、祭りを行う集落間での担い手の交流などで、祭りの維持運営が従来のあり方から著しく変容していることが明らかになった。
    これらの結果、一定の地域内において集落単位で維持運営されている同系統の複数の祭りでは、人口や平均年齢といった維持運営基盤の変化にともなう変容にかんして、以下の三つの特徴が指摘できる。第一に、維持運営基盤の変化に伴って、祭りの維持運営は、集落外部の人々を段階的に担い手として取り込んで変容するプロセスを見せる。しかし第二に、実際の変容の度合いは地域・集落によって大きく異なっており、例えばその過程で外部からの担い手を拒絶し、神事への縮小を選択するケースも現れる。このように変容の度合いや方向性が異なる理由は、維持運営基盤の変化に加えて、集落・地域における祭りに対する住民意識の相違による部分も大きい。そして第三に、それぞれの祭りは他集落・地域の祭りとの相互関係を有しており、従来は心理的対抗意識による相互活性化という関係が生じていた。しかし現在では物理的互助という新しい関係も築かれ、両者が併存しつつ維持運営が行われている。
  • 沿日本海地域の位置づけをめぐって
    岡本 勝規
    セッションID: 225
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    ◆研究目的
     表日本、裏日本という言い方に対し、日本の沿日本海地域(以下、沿日本海地域)ではしばしば、「対岸諸国へのかつての窓口」としての位置づけが主張されてきた。しかしながら今や、到底「窓口」とは言いがたい状況にある。
     そこで、明治維新以後から太平洋戦争開始前までの期間について、日本(いわゆる「内地」)と対岸諸国とを結ぶ航路の開設状況を明らかにし、対岸諸国との関係における沿日本海地域の位置づけの変化を探る。また、その変化の状況を今日の沿日本海地域の位置づけと重ね合わせて、今後の同地域における海上輸送の活性化を展望する。
     なお、ここでの対岸諸国とは、中国、韓国、ロシア、北朝鮮を指すものとする。

    ◆研究方法
     1.文献(社史、報告書等)により、調査対象時期における、「内地」と対岸諸国とを結ぶ航路の開設状況を調査。
     2.沿日本海地域にある重要特定港湾及び重要港湾について、対岸諸国との海上貨物輸送取扱量を調査し、沿太平洋地域の港湾と比較。
     3.業者(海運業者及びフォワーダー)に対する聞き取り。

    ◆結果
     現在の沿日本海地域においては、中国及び韓国との輸出入量は、沿太平洋地域のそれに遠く及ばない。一方、ロシア及び北朝鮮との輸出入については、沿太平洋地域に対して優位に立っている。ただし、対ロシア、対北朝鮮は貿易規模そのものが小さい。
     対岸諸国との主要な航路の変遷については右の図の通り。沿日本海地域が対岸諸国への窓口であった時期は極めて限られていたことが伺える。
     そもそも航路は主要な市場である沿太平洋地域から開設され始めたのであり、沿日本海地域から航路が延びるためには国内交通網の整備や対岸の政治状況など、別の要因が必要だったと言えよう。
     中でも特に重要なものが、中国東北部との結びつきである。このことは、今後の沿日本海地域のおける海上輸送の活性化を考えるにあたり、非常に示唆に富んだものとなっている。
  • 相澤 亮太郎
    セッションID: 301
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/11/30
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    I 問題意識
     本研究は、ハザードマップの有効性を十分に認めた上で、ハザードマップに掲載された災害リスクの空間的情報と、住民が培ってきた災害の空間認識とのずれに注目するものである。ハザードマップの作成は、専門知識に基づいたシミュレーションのみならず、作成過程に住民が参加することで、ローカルに蓄積されてきた災害リスクが反映されることもある。そのような状況をふまえれば、ハザードマップと、住民が培った災害にまつわるメンタルマップは、非対称かつ相互作用的な「地図」であると位置づけることが出来る。
     しかし、現段階ではハザードマップそのものの認知度や普及方法に課題が残されており、ハザードマップが防災の切り札であると言い切れない状況である。またハザードマップの有効性が実証されるのは災害が発生した後である、というジレンマも抱えている。防災活動やハザードマップへの関心を高めるために、学校教育や地域社会における防災教育全般の再検討の必要性を含め、住民の関心喚起や地図学習の重要性などが訴えられているものの、そのような取り組みははじまったばかりである。
     ところで近年の人文地理学では、意味や解釈を含む「社会的に構築された場所」を捉えるアプローチが注目されつつある。発表者は、災害リスクやハザードマップを社会的に構築された場所であると位置づけることによって、従来とは異なる視点を得ることが出来ると考えている。これまでのハザードマップの議論においては、住民は主に災害リスクや知識を提供される受け身な存在として位置づけられ、いかに住民の災害回避能力を高めるのかという点に作成者の関心が置かれてきた。だが、ハザードマップは、それ以前から培われてきた地域認識の上に、新たな「災害の場所」を構築するローカルな知識の一部であると位置づけることができる。それならば、住民がどのような「災害の場所」を構築し認識しているのかを明らかにすることで、ハザードマップの役割や改善点が見えてくる可能性があるのではないだろうか。
    II 調査地の概要
     上述の問題意識を念頭に置きながら、本研究では岐阜県大垣市を調査対象地とし、洪水災害の歴史や防災の取り組みを把握した上で、住民を対象としたメンタルマップ調査を伴う聞き取り調査を行う。調査対象地は、「水と闘う地域」として広く知られている輪中地域の一部である。明治以降の河川改修や堤紡強化、湿地の埋め立てや動力排水の充実によって全体的な洪水被害は減少しているが、たとえば洗堰を抱える地域では度重なる洪水被害に悩まされ続けている。市内には水害記念碑や水防倉庫が数多く設置され、防災意識の高さが垣間見られるが、一方では、水防団構成員の高齢化や人員不足、防災意識の低下などの問題点が指摘されている。市域全体をカバーするハザードマップの配布とは別に、洗堰によって洪水が頻発している地域では小学校区単位のハザードマップが作成され配布されている。
    III 災害の空間認識
     本発表では、2006年7月から8月に行う調査によって得られた回答を元に、ハザードマップとメンタルマップの状況を示した上で、考察を加えた内容を報告する。災害経験や防災教育、ハザードマップ等を通じて構築された災害の空間認識を示した上で、「災害の場所」の視点からハザードマップのあり方について言及したい。
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