日本地理学会発表要旨集
2009年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 410
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国産大理石石材産業の変遷
~岩手県一関の事例~
*乾 睦子
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キーワード: 石材, 建築, 大理石, 花崗岩
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抄録

日本列島は、プレートテクトニクスの働きによって様々な時代・場所でできた岩石の寄せ集めで成り立っている。このため、国土の狭さに比して多様な石材が分布しており、明治期に西洋建築が導入されると、その一部は建材として利用されるようになった。なかでも大理石は、岩石の中では耐化学性・耐候性に劣るため外構にはあまり用いられてこなかったが、様々な色彩や縞模様、角礫状の模様などが美しく、磨くと光沢を放ち高級感があることから、建築内装材として多用される岩石である。しかし、現在、国産大理石はほとんど建材として採掘されておらず、産地からも、それが用いられた建築物の管理者からも、国産石材の記憶が失われつつあることが分かってきた。本研究は、国内の建築石材産業の歴史を関係者へのインタビュー調査から整理し、とくに岩手県一関市付近の大理石産業の変遷を例として、日本の地域風土と大理石産業との関連を解き明かそうとするものである。
日本の大理石産業を隆盛に導いたのは、昭和11年竣工の国会議事堂建設であるとされている。その設計にあたっては、国産石材だけを用いるという強い意志のもと全国で大理石資源が探索された。その結果、今ではほかで見ることができない国産大理石のサンプルが一堂に会する貴重な建築物となっている。しかし、大理石の建材への利用がすぐに一大産業になったのではなく、置時計や配電盤といった、建築設備関連への利用をまず中心として大理石産業の基礎が築かれたということである。その後、建築工法の発達(湿式工法から乾式工法、PC工法へ)によって大理石の安全・効率的な施工が可能になり、建築石材としての需要が伸びていった。
ところが、その後国産石材産業は大きく市場規模を縮小し、前述のように今では国産大理石はほとんど建材としての採掘が行われていない(あるとすれば、文化財の修繕などの特殊な用途)。その理由としては、まず安い輸入石材の増加、国内の人件費の高騰によって採算が取れなくなったということが挙げられた。また、冒頭に述べた日本の地質学的特徴により、日本の大理石産地はいずれも規模が小さく、採掘が進められるにつれて品質が落ちたり、同じ色目の石材を大量に揃えることが難しいという欠点がある。さらに、採掘場からの石材運搬が困難になったり、石材採掘という行為が環境基準に見合わなくなったなどの理由によって採掘が中止された産地が多いことが分かった。建材の採掘が終了した後、大規模産地では石灰石(鉱業資源としての石灰岩)としての採掘が続けられている場所が多い。また、材料を輸入石材に切り替えて石材加工業が稼働しているところも国内にいくつかある。
岩手県一関市付近には浅海性石灰岩層が多く分布し、一部は再結晶作用を受けて大理石となっている。第二次世界大戦中から昭和50年頃まで、この地域ではいくつか大理石の採石場が稼行しており、建築石材として採掘・加工が行われていた。市街地の中に石灰岩の山が点在する地形で、その山のいくつかが小規模に採掘されていた。しかし、採掘が進むにつれて大理石の品質が悪くなり、歩留まりが下がる一方、おもに台湾から輸入されたよく似た模様の石材に価格面で対抗できなくなり、昭和40年代後半から徐々に採掘規模を縮小し、昭和50年頃には最後の山が閉山された。最後まで残った石種は黒に近い大理石で、類似の輸入品がほとんどなかったことから長く採掘できたということである。石材業は、加工技術に活路を見出し、ほぼすべて輸入石材を用いて現在も加工・施工業が営まれ続けている。しかし、当時使われた地元産の建築石材は、現存するものを探すのも困難なほどである。
いくつもの採掘場を数十年間も運営してきた大規模産地においてさえ、上述のように国産石材については忘れ去られようとしていることが分かった。日本の歴史的な大理石産地の多くが同様の状況にあると思われる。大理石産地の歴史と、施工された大理石建材の現況調査を早急に進めていく必要があると考えている。

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© 2009 公益社団法人 日本地理学会
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