抄録
1.はじめに
2010年春の地理学会公開シンポジウム「環境市民活動は何を目指すのか?」では、「環境共生社会における理工系専門家の役割と目標について考える」と題して以下を指摘した。
(1)市民運動では、支持する専門家が科学に基づいて発言する内容は合理的とされる事が多い。特にそれが行政の施策と反する場合、反対運動の根拠とされる例もある。しかし専門家は、環境に関わる全てに専門知識を有するわけではない。あくまで水質の専門家であり、水理の専門家であり、水生植物や水生動物の専門家である。従って、市民運動と関係している専門家が当該案件について適切な専門知識を常に有しているとは限らず、誤った見解を示す可能性が皆無ではない。
(2)人為的な影響を減らす事が、市民運動が望ましいとしている状況を必ずもたらすとは限らない。特に当該水域が高度経済成長期に計画・施工された大規模公共工事によって自然環境が悪化したとされる場合、その工事以前の状態に戻すことが自然再生にとって不可欠と主張されがちである。これは一般市民にとって非常にわかりやすい論理であるが、当該工事から数十年経る間に、それ以外の要素(例えば富栄養化や人と水域との関係)も変わってしまっていることの影響が議論されていない。むしろ人工的に改変された状況の方が、地域にとって豊かな自然環境をもたらしている可能性もある。
ここでは中海本庄水域(図1)の堤防撤去と開削を巡る科学者間の見解の相違と、堤防撤去と開削によって環境はどうなったのかを紹介し、上記問題点の事例として検討する。
2.中海および本庄水域の特性
中海は境水道を介して日本海と連なる平均水深5.4 m、表面積約 71 km2(本庄水域を除く)の潟湖である。水深4m 付近に安定した塩分成層が存在し、上層水の塩分は海水の約 1/3、下層水の塩分は海水に近い。下層水は通常5月から 10 月まで貧酸素化する。本庄水域は表面積約 17 km2で、昭和38年に開始された国営中海土地改良事業の干拓予定地として、1981年に森山堤防、北部承水路、大海崎堤防、西部承水路堤防からなる干拓堤防で中海から切り離された(図1)。工区西側にある幅約 100 m の西部承水路を2km 入った堤防開削部で中海本湖とつながっていたが、この水路の水深が2~ 3.5 m と浅いために、本庄水域には中海の上層水しか入らない。このため、本庄水域の水塊は比較的均一で塩分成層が生じにくく(神谷ら、1996)、中海本体と比べると下層の貧酸素水塊は強風によって容易に消滅する。酸素が多い為に、中海本湖では水深2~3m以深には生息しないホトトギスガイが本庄水域では水深5m近くまで生息し (Yamamuro et a1.,1998)、動物プランクトン生息密度も年間を通して中海本体より高かった(山室、1997)。これらの結果から、下層水の流入を引きおこす堤防撤去と開削は塩分成層の強化を招き、本庄工区の貧酸素化をもたらすと指摘されていた(例えば石飛ほか、2003)。一方、堤防の開削により本庄工区の溶存酸素濃度は増 加するとの数値シミュレーション結果や、現場の独自調査をもとに開削を求める自然科学者集団も存在した。その主張は、昔の地形に戻せば昔の中海がよみがえるとする市民感情に合致し、結果として西部承水路堤防が2008年に撤去され、森山堤防では2009年に開削が完了した。