日本地理学会発表要旨集
2010年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: S1903
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霞ヶ浦、平野部に位置する広く浅い湖沼の開発に対する科学的評価
*沼田 篤
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抄録

江戸後期、佐原の名主を隠居した伊能忠敬が幕府天文方高橋至時に師事し、測量隊を組織して作成した「大日本沿海興地全図」では、霞ヶ浦は空白である。霞ヶ浦沿岸湿地帯は測量隊が入れず、利根川洪水の影響を受けて、砂洲の出現と流出が繰り返され、著しい水位変化によって、湖岸線が確定できなかったからではないか。明治中期、陸軍参謀本部による「第一軍管地方二万分一迅速測図」によって、初めて霞ヶ浦・利根川最下流水系の全貌が明らかになった。人工化による管理を受ける以前の低湿地帯地形は瞠目すべき複雑さであり、水郷と共生する住民の生活風景は文人墨客の目には素朴な南画的理想郷として映ったかもしれないが、特に農漁民の暮らしは過酷であり、不安定で僅かな収入に頼る状況であった。現代の地図に描かれた湖岸線の位置そのものが、水域と陸域を明確に分離する開発によって人工化された結果であることを銘記すべきであろう。 霞ヶ浦のように平野部に位置する広く浅い湖沼では、沿岸湿地帯が広大で、砂浜に続く葦原(アシ-カサスゲ群落)が本来の景観である。砂浜の奥部には高い波浪時に打ち上げられた粗砂と有機物から構成される浜堤(ひんてい)が形成される。浜堤の背後には柳まじりの葦原が続く。広大な湿地帯は増水時に湖水が冠水するが、減水時には大量の有機懸濁物(富栄養化した湖沼で量的に多いのはプランクトン類)を置き去りにすることで湖水の水質が改善される。有機物は湿地帯で分解され、アシの養分となる。湿地植生は、分解(異化)と合成(同化)の結果として成立する。その豊かな植生に依存して、消費者である昆虫や鳥類が生息する。死と再生の厳粛なドラマとしての物質循環の場が湿地帯である。さらに湖沼の水質保全にとって沿岸湿地帯は、人体における心臓、肺、肝臓、腎臓、生殖巣の機能同様、必須の場である。沿岸湿地帯や流域を含めた湖沼生態系は小宇宙(フォーブス・西条八束)であり、構成要素は不可欠で、一部に加えられた打撃はやがて全体に及ぶのである。 戦後日本では、帰農する引揚者や次三男への農地供給、高度経済成長における工場用地確保の要請において法整備がなされ、広く浅い湖沼や内湾の干拓・埋め立て・土地改良が促進された。八郎潟、手賀沼、印旛沼、霞ヶ浦、東京湾、大阪湾、神戸沖、児島湾、宍道湖、中海、有明海などで、ほとんど全てまたは一部が陸地化した。霞ヶ浦では、湖面積の約1割にあたる湿地や浅い水域が干拓・埋め立てされ、水田、ハス田、牧場、宅地などに土地利用されている。これらの開発地は、霞ヶ浦開発事業(1996年概成)による築堤で水域から仕切られ、水害は絶えた。沿岸各地には多数の用排水機場が整備され、50km遠方の農地まで農業用水(霞ヶ浦用水事業)として、常陸川水門(1963年設置)の開閉によって淡水化された湖水が供給されている。 海跡湖としての霞ヶ浦は、江戸時代以後汽水性が弱まり、流出河川の常陸川下流域は利根川の洪水の影響を受けて陸地化が進んだ。霞ヶ浦本体においても開発(森林の開墾等)に惹起された表土流出によって流入河川河口部は広いデルタ地形となり、水深が浅くなった。江戸時代後半から昭和初期までに、既に淡水化が進んでいた。堆積速度によると、霞ヶ浦は自然遷移下では約1000年で陸地化する宿命だった。戦後の治水事業としての放水路事業によって生じた塩害と利根川本流からの逆流対策のための常陸川水門建設を緒に進捗した開発事業のうち特に「沖出し堤」による囲い込みによって、「低地のダム」として高度に利用する方向を地域は選択したことになる。その恩恵は、沿岸と遠隔農地の安定的な生産性を担保し、筑波研究学園都市はじめ東京通勤圏として人口増加著しい牛久市、龍ヶ崎市など周辺都市への都市用水供給、鹿島臨海工業地帯への工業用水供給など多方面に及び、茨城県民のみならず首都圏発展への貢献度が大きいことを客観的に認めなければならない。他方で霞ヶ浦開発は、水質悪化、漁業不振、生態系の単純化、景観の悪化をもたらした。特に浅く広い湖沼の沿岸湿地帯の構造と機能についての認識は、農家をふくむ一般住民や行政職員のみならず、生態学、陸水学、堆積学、地形学、地理学など関連分野の専門家さえ希薄だったのではないか。開発行為は両刃の剣であることを客観的に認めつつ、問題点を抽出し、現実を無視した観念論とは無縁の、自然科学的かつ現実的認識が根付き、市民意識をもって地道に一歩ずつ対策を講じていくことが今後肝要であろう。

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