抄録
チベット自治区と接する雲南省北西部(迪慶藏族自治州、総人口約30万人)には、約10万人の西藏族が居住している。その主な地域は迪慶藏族自治州徳欽県(人口約5.5万人)である。西藏族は標高3,500m前後に居住し、耕作限界に近いために農耕のみでは生活を維持できない。そこで夏季には森林限界をこえた4,500m以上の高地の草原まで牦牛(ヤク, Boss grunniens)の移牧をする。つまり、かれらの生業は「母村における農耕+高山へのヤクの移牧」という組み合わせである。その関係は相互補完的で、どちらが欠けても彼らの生活は成り立たない。彼らは、自然環境の特性に合わせて自然の一員として住むという、いわばbio-regionalismとでもいうべき考えのもとに、きわめて自然環境に適応した生活を営んでいる。
霧濃頂村は標高3,540mにあり、戸数21戸の自然村である。生産責任制は1979年に導入された。村民は「生産責任制導入以前のこの村は貧しい村だったが、現在ではなんとか普通の生活ができるようになった」という。
集落の周辺を取り巻く耕地では、主作物は青稞・春小麦・万菁(飼料用のカブ)に加えて、近年では冬青稞、冬小麦の栽培も若干みられる。ヤク(牦牛)やピエンの移牧は、例年6月中旬に村落からウシを1日で一気にプチン・ジャマートン(4,248m, テント村)まで移動し、ここに約90日滞在する。このテントサイトを「ラ・プウ」(ラはテントの生地;プウはテントの意)という。筆者の観察によれば、この辺りの森林限界はほぼ4,200mであり、彼らのsummer range(夏村;ジュグラまたはデュカ)はこれを超えており、その周辺はいわゆる草原(プン, Alpine pasture)になっている。テント生活のための薪の調達には、彼らは森林限界からあまり離れたくはないが、高地であればあるほどウシには質の良い草本が得られる。ウシは、8月には雪線(ほぼ4,700m)の直下まで上り詰める。ウシは自然交配である。
ウシは、テントを中心としてせいぜい半径5kmの範囲で採餌する。搾乳のために、牧童は朝夕毎回ウシを集める作業があるが、あまり困難な作業ではない。
夏のテントでは朝夕の二回、搾乳をする。搾乳後、バター(メエ)とチーズ(ティエ)をつくる。バターはそのまま1ヶ月保存できる。チーズは生のままでは保存できないので、テントの干棚の上で1日かけて「乾燥した燻製のチーズ(キャラまたはデム)」をつくる。
9月中旬にはテントをたたみ、ウシを村落近く(標高3,600m)にまでおろし、ここに数日滞在し、村落での青稞の収穫が終了してからウシを村内に入れことができる。ウシは冬季には舎飼いされ、村落周辺で草を食むが、飼料(乾燥した万菁というカブ菜)も与える。
バターやチーズは、消費者が直接生産者宅に購入に訪れることが多い。また数戸の生産者が共同して市場で販売することもある。市場は徳欽であることもあるし、親戚などがまとめて遠く麗江まで運搬して行くこともある。
筆者の聞き取りによれば、インフォーマントであるA氏(6人家族)の1993年の年間1,000元くらいであった。しかし2008年9月の聞き取りによれば、収入は毎年かわるが、2007年は11,000〜12,000元くらいだった。このなかには冬虫夏草の採集・販売5,000〜6,000元が含まれる(最近は値が安定している)。総収入に占めるバター・チーズの割合は、例年50%くらいである。A氏は、村落全21戸のなかでは「収入は多い方の部類だ」という。
徳欽地域で、3,000mを超える山間地に暮らす人びとを観察していると、家族レベルでも村落レベルでも牧畜と農耕とが不可分の生業として一体化されている。このような農耕と牧畜の絶妙のコンビネーションのうえに成り立つ生業を何と表現したらよいのか適当な専門用語が見いだせない。しかし一応、agro-transhumance complex という表現を与えておくことにする。日本語は「耕牧文化複合」としておく。■