日本地理学会発表要旨集
2012年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: S1106
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発表要旨
蝦夷地陣屋の構築物と近世陣屋の形態変容
*土平 博
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抄録

 1.近世陣屋の構築と領域をめぐる問題
 江戸時代、幕府から城を持つことを認められなかった大名は領内に陣屋を構築した。幕府側は、諸大名を「城持ち」以上とそれ未満に分け、大名の序列をつける基準の一つとしていた。大名以外にも、高禄の旗本が陣屋を構築していたり、大名の重臣が地方で陣屋を構築することもあった。
陣屋の構築は、幕府および大名の所領構造と深く関わっており、城との相違を指摘できる。武家諸法度や一国一城令によって結果的に政庁となる城を増やせない以上、代用となる構築物が必要であった。それが陣屋でありそのような問題を解消する役割をもっていた。城を補完するように陣屋が各地で構築され、不要となれば破却された。
2.幕末の蝦夷地陣屋
 幕末に構築された蝦夷地陣屋は、奥羽の盛岡藩、仙台藩、会津藩、久保田藩、庄内藩が幕府の命を受けて蝦夷地警備および領地経営の拠点とされた。蝦夷地は奥羽諸藩の本拠地である陸奥・出羽両国の飛地領ともいえるが、年貢徴収をはじめ農民統制を目的としない領地経営であったことから、これまで全国の諸大名や旗本が飛地領支配のために構築してきた陣屋と全く異なった。
 奥羽諸藩は幕府から共通の目的を指示されていたために、陣屋の構築場所を①海岸付近ないしは河川の下流付近、②高台としていた点はほぼ共通しているが、強風等を避け厳しい自然の下で耐えられる状態にしておくことも構築場所選定の条件のひとつとして考えていたようである。
3.陣屋形態の変遷
 幕末の蝦夷地に構築された陣屋は、江戸時代前半に構築された陣屋と形態上異なる。それは、家主と家臣団が居住することを目的していないからである。陣屋は、周囲に土塁と出入り口の門、土塁内は日勤・寝食、食料備蓄、武具や火薬収納に関する建物で構成されていた。
 近世以前の陣屋は戦時の際の臨時的な陣場であったが、近世になると全国各地で政務の場の建物群を指し示すようになった。幕末の蝦夷地に構築された陣屋は近世以前の臨時的な陣場に近い。しかし、構築物は銃火器を強く意識した堅固なもので、陣屋形態の相違は明らかである。近世陣屋の多様な形態を整理すると、当時意識的に「城」と区別しながら、軍務ならびに政務の場の構築物に対して「陣屋」と称してきたのであろう。

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