日本地理学会発表要旨集
2014年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: S1309
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発表要旨
植民地期朝鮮における缶詰製造業の展開
竹中缶詰製造所の朝鮮分工場
*河原 典史
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抄録
本研究では、植民地期朝鮮における済州島と半島部に位置する羅州を事例に、両地で展開した竹中缶詰製造所を事例に、在朝日本人のネットワークについて考察した。国家全体をふまえた地方都市拠点の形成を解明する場合、実業家とそれをとりまくネットワークの存在は看過できないはずである。1869年(明治2)京都府深草町に生誕した竹中仙太郎は、1883年(明治15)京都・縄手通り新橋にて青果商・八百伊開業した。1902年(明治35)缶詰製造開始し、1916年(大正5)には個人会社・竹中缶詰製造所が創立された。その後、1922年(大正11)深草北新町へ工場移転、株式会社へ再編されたものの、1923年(大正12)には、関東大震災にて横浜の輸出用缶詰倉庫が被災した。これを契機に株式会社として再編された竹中缶詰製造所は、1928年(昭和3)済州島北西部に位置する翁浦里の牛肉缶詰工場を買収し、1930年(昭和5)には周辺の電燈事業にも着手した。同年に死去した仙太郎に代わって、長男・新太郎が継続した。1933年(昭和8)、朝鮮総督府総監・宇垣一成が光州訪問した際、黄桃缶詰製造を竹中缶詰製造所に打診した。調査の結果、まずは翌年に水害による被害農家の救済として漬物工場が計画され、地元農家と大根、えんどう豆や黄桃の栽培契約が成立した。1935年(昭和10)に工場操業したものの、作物の収穫ができず、本格的な操業は翌年からになった。軍需缶詰工場として発展した竹中缶詰製造所の展開には、朝鮮総督府や全羅南道を中心とする国家・行政だけでなく、大阪の松下商店や神戸の長岡産業などとも連携した。竹中缶詰製造所の展開やネットワークは、朝鮮各地の地方新聞記事、業務報告書や古写真など、竹中家所蔵資料(竹中家コレクション)から紐解くことができる。
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