抄録
Ⅰ はじめに 1888年に起きた磐梯山の噴火災害は,新たな一次史料の発見に伴い,現地調査と既存史料の見直しが進められている.本発表では,追加検証による謎の解明,噴火前と後に描かれた史料を中心に中間まとめを行いたい.
Ⅱ 噴火当日寫眞とその後の寫眞 磐梯山噴火当日,会津若松市七日町方面より撮影された寫眞は2葉あり,撮影者は地元寫眞師:金上和吉氏であった.この寫眞には,磐梯山噴火の基本解釈を根底から覆す噴煙やブラストが写っていた.金上氏は,噴火4日後の19日以降も磐梯山の崩壊壁を撮影した寫眞を4葉残しており,崩壊後の活動推移も読み取れる.当時の朝野新聞は,版権を含め噴火関連寫眞4種の提供を受けている.その後,浅草の寫眞師:鶴淵初蔵氏と共同で数十枚の磐梯山噴火関連の写真を撮影したが,その全貌は明らかではない.撮影者不詳の既存寫眞の中に紛れている可能性が高い.
Ⅲ 噴火前と後の絵画比較とその評価 中川耕山の「岩代國耶麻郡磐梯山噴火實況之圖」は,1888.7.27.磐梯山噴火に関連し枇杷澤を含めた見禰村の被災地を最も早く石版画である(渡辺,2011).渡邊忠久の「岩代國那麻郡磐梯山破裂之圖」は,被災地支援のため福島県関係者に協力する形で刊行したもので,).しかし,現地調査が全く不十分な史料であった.噴火前の絵画では,遠藤香村・僧白雲・蠣崎波響・五雲亭貞秀・高島得三らの絵が写実的であり,千葉(2013)が発見した寫眞とあわせて高く評価できる.僧白雲の作品には,赤津邑(猪苗代湖南)から見た盤䑓山,束松峠から見た盤䑓山(小磐梯を含む)が存在し,西南から見た遠藤・五雲亭作品との比較が可能である.殊に,五雲亭や犬塚作品同様,小磐梯から続く分岐尾根の存在が表現されていることは,崩壊前の磐梯山の全貌と崩壊土砂量算出上,重要な史料となる.一方,山体復元と崩壊履歴の峻別をしないで土砂量を算出する事は,客観性を著しく欠いており問題が多い.
犬塚作品の優れた点は,寫眞と異なる「色彩」の入っている事である.色彩は,噴火当時のブラスト・噴石・土石流被害がどの程度及んだのか,植生破壊の様子や河川汚濁まで明示されている.
Ⅳ 殉難碑検証と聞取り調査 讀賣新聞の誤報と誤認研究で125年間も風評被害を受けた長坂集落の悲劇を象徴する「殉難碑」について,犬塚の記録画と聞き取りで次の諸点が判明した.米地(2006)が指摘した「新旧碑文の解釈や北原(1998)が尊重した伝承と解釈,八島(1988)の研究等に対する批判」には,重大な事実誤認があること.殉難碑の設置位置に関する記述も聞取り調査が不十分であったこと(元の位置は三ッ屋にあり,道路拡張に関連して昭和34年8月に現在の位置に移転)が判明した.本来あるべき殉難碑の位置は,犬塚氏の記録画と岩田・菊地(No.12)寫眞から,現在より数百m南の三ッ屋寄りの場所である.
Ⅴ 地元有力者の視察と合同撮影 磐梯山噴火直後に撮影に入った寫眞師:岩田善平氏の存在は昭和62年から知られていた.当時の機材・現像法を考慮すると撮影には複数の人が必要である.米地(2006)は,岩田善平氏の調査で撮影者が岩田氏本人ではなく菊池喜雄氏であることを明らかにした.一方,竹本(2010)は,寫眞師史料から撮影者の一人:菊地喜雄氏が白河の人であること,第9号寫眞中に喜多方町の有力者:岩田善内氏(善平親族で視察の中心)の存在を明らかにした.この事実は,災害視察のため寫眞師:岩田・菊地両氏が機材を持ち寄り,善内氏中心の合同撮影隊を編成していたと考えるのが妥当だろう.