日本地理学会発表要旨集
2016年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 115
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発表要旨
徳島城下絵図のGIS分析
*平井 松午塚本 章宏田中 耕市根津 寿夫
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抄録

1 はじめに
  近世城下絵図の中でも,近世中期以降に作成されてくる城下屋敷割絵図や町絵図は地図情報量が多く,古地図のGIS分析に比較的適している(平井2014)。そうした城下屋敷割絵図や町絵図をベースに作成したGIS城下町図と,城下居住者(武家・町人)に関する歴史情報データベースを組み合わせ,城下町の町割や土地利用の変化,武家の居住地移動や居住者異動などを明らかにすることで,幕藩社会の都市構造分析に直結する城下町研究・城下絵図研究の一層の深化が期待できる(平井2012・2014)。
そこで本発表では,豊臣期の1585(天正13)年に城下町が建設着手された徳島城下町を事例に,近世期における各期の城下絵図をもとに城下町構造の変化についてGIS分析を試みるものである。
2 徳島城下町の概要
1585年の四国平定後に入封した蜂須賀家政は渭山(現在の城山,標高61.7m)に平山城を築き,翌1586年には布令によって積極的に町人の移住を奨励した。
徳島の城下町プランの特徴は,吉野川の分流である新町川・寺島川・助任川・福島川などの網状河川を利用した「島普請」にある。建設当初の徳島城下町については不明な点も多いが,基本的には豊臣期の都市プランを反映したと考えられる。すなわち、城郭が位置する徳島地区ならびに大手筋(通町)にあたる寺島地区を中心に,出来島・福島・常三島・住吉島の6島と寺町・新町地区が徐々に整備された 。
その後,1638(寛永15)年の阿波九城(支城)の破却を契機として,城番家老による分権的支配体制から藩主直仕置体制への移行に伴い,寛永末~正保期の1640年代にかけて境目番所や阿波五街道が整備され,阿波九城を警護していた家臣団が徳島城下に集住したことから,佐古・西富田・東富田が新たに城下に組み入れられた。この新城下地区には,伊予・讃岐街道と土佐街道を軸に徳川期の都市プランが採用されている。これにより,「御山下」と称する徳島城下町の縄張りがほぼ確立された(図1)。
3 徳島城下町の城下屋敷割絵図
徳島城下町全体をカバーする城下屋敷割絵図は,1691(元禄4)年以降,明治初年までに16点を数えるが,町絵図は確認されていない。これらの城下屋敷割絵図の多くは見取図であるが,18世紀末以降には実測図系の絵図も作成されている。今回は,このうち1869-71(明治2-4)年作成と推定される実測図系の「阿州御城下絵図」(徳島県立博物館蔵)をベースマップとして,城下町構造の変化について報告することにしたい(図1)。
付記
本報告は平成25~28年度基盤研究(A)「GISを用いた近世城下絵図の解析と時空間データベースの構築」(代表:平井松午,課題番号25244041)の成果の一部である.
参考文献
平井松午 2012.洲本城下絵図のGIS分析.HGIS研究協議会編『歴史GISの地平』109-120.勉誠出版.
平井松午 2014).安政期の鳥取城下絵図にみる侍屋敷地の実像-GIS城下図の比較分析-.平井松午ほか編『近世測量絵図のGIS分析』175-197.古今書院.
平井松午 2014.近世城下絵図の分析と課題-歴史GISからのアプローチ-.史潮76:22-35.

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