抄録
1..研究の目的
本研究は,1930年(昭和5年),1938年(昭和13年),1940年(昭和15年)の3回,日本郵船株式会社と東洋音楽学校と間で取り交わされた「浅間丸龍田丸秩父丸に楽士供給の件」の契約書を手がかりとして,取り決めをされている楽団の楽器編成,演奏業務時間,楽士の待遇などの内容を分析することから,「船の楽士」の実態に関する新しい知見を見いだすことを目的とする. 「船の楽士」に関する研究は,音楽史の分野では一部なされてはいるが,地理学的な視点で捉えた研究はほとんどない.そこで,大正期から第二次世界大戦期にかけて,当時の国際移動の主役であった客船で演奏業務を行った日本人による「船の楽士」に焦点を当て,特に豪華客船の最盛期であった1930年代の「船の楽士」が,音楽技術の修練や職業音楽家としての場でどのような活動をしていたのか,その一端を明らかにする.
2.「船の楽士」と東洋音楽学校,日本郵船との関係
1912年(大正元年)8月,橫浜港を出港した東洋汽船サンフランシスコ線「地洋丸」に,東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の卒業生5名が船内での演奏業務を行うために乗船した.私立の音楽専門学校は就職先を確保することが困難な時代であったため,学校側は,卒業生が国際航路の客船にて,1等乗船客への食事時に提供する奏楽,あるいは出入港時の奏楽業務を行うことで,音楽の仕事をしながら,併せてアメリカで新しい音楽を直接見聞できるのではとの狙いがあった.一方,東洋汽船側は,路線が競合するアメリカの船会社との差別化を図るため,船客向けサービスの充実により,特に日本人による奏楽が,外国人客の誘引策の一つになり得るとして取り入れた.彼らは「船の楽士」と称され,この仕組みは東洋汽船に次いで,後に同社を合併した日本郵船に引き継がれ,彼らの活動は大正期から昭和16年までの約30年間に渡った.東洋音楽学校は「船の楽士」という職業音楽家を排する場のひとつでもあった.
3.楽士供給の契約書に記載されている事項
学校及び会社それぞれの役割,それぞれが支弁するもの,楽団員数,楽器編成,服装,演奏時間,演奏機会,船内での職位・待遇,給与の支払い方法,規律遵守などが細かく取り決めをされている.なお,契約書は東洋音楽学校側は校長の鈴木米次郎個人,日本郵船株式会社は会社として押印している.
4.楽士供給の契約書の分析で明らかになったこと
楽団編成は,段階的に増員されるも,演奏曲目が多様化するに従い,一人が複数の楽器を兼務するなど柔軟な対応を強いられ,演奏技術だけでなく編曲能力も問われたと推察できる.演奏機会も当初取り決められた業務から徐々に増えていき,日本郵船としても「船の楽士」の必要性を強く感じていた.待遇は,一般の給与所得者と比して,食事,家賃,光熱費等が不要なことで,若い楽士たちにとっては魅力のある場であった一方,客船という限られた環境の中では激務だったと類推できる.また,東洋音楽学校としては,卒業生の活動の場を確保するというということもさることながら,演奏のプロモーター的位置づけもあったのではないかと考えられる.