抄録
1.はじめに
近年,インドは出生率と死亡率がともに低下し,人口転換モデルの第3期に相当する(西川由比子,2016)。このような人口増加率の低減に加えて,宗教的背景により,インドは食肉と飼料穀物の需要が増加せず,穀物生産量が増加した結果,21世紀には穀物輸出国となった(川島博之,2014)。しかし,環境に適応した技術や制度の導入が進んでいるものの,マクロスケールにおける自然環境に関する持続可能性は悪化しているとされる(佐藤孝弘,2014)。
本報告は,1990年代以降,急速に経済成長を遂げ,持続可能性に関して懸念がある現代インド農村に関して,近年の地理学内外の研究をもとに,その自然環境や社会・経済がどのように変容しているのか,そのような変容が将来的なインド農村の持続可能性にどのような意味を持つのか,また地理学の立場から今後どのような研究がもとめられるのかを検討する。
2.現代インド農村の自然環境・社会経済的変容の研究
現代インド農村の環境悪化の原因の一つとして,化学肥料使用量の増加による農地の過剰窒素が指摘されている(新藤純子ほか,2011)。さらに過去30年にわたる地下水の過剰開発によって,地下水面の低下が起こっていることは(Malik,2016),特に乾燥・半乾燥地域の農業や農村社会の持続可能性には大きな障害となることが予想される。
一方,社会経済的側面の変化に関しては,地理学を含めて経済学や人類学,教育学等の多くの分野において精緻な研究がなされている。これらの研究により,国家レベルで捉えれば,都市地域との繋がりを含めて,現代インド農村は就業機会や商品作物の多様化による経済的基盤の拡充,農村の自律的成長を支えるための政治的体制や人的資質充実のための基盤が整いつつあるといえる。
例えば,多くのインド農村では20世紀以降,土地所有の拡大による下層階層の成長と上層階層の都市雇用を求めた移動や農業からの離脱が見られる(柳澤悠,2015)。また,1970 年代に始まった「白い革命」によって畜産生産の産業化・近代化が進み(絵所秀紀,2011),トラクターの普及が村内の家畜の役割を変化させ,農業労働の時間配分や伝統的な農業労働の雇用関係を変化させた(篠田隆,2008)。
農村内における政治的状況についても,住民参加に大きな役割を果たすと期待されたパンチャーヤト制度は十分な実績を上げていない地域があるものの(近藤則夫,2009),同制度の定着により,村内政治の民主化やカースト集団間のヒエラルキカルな序列関係や相互依存関係の弱体化が見られる(森日出樹,2001)。また,このような変化の背景には,とりわけ社会的弱者層にとって重要な意味を持つ1990年代から進む学校教育の普及がある(牛尾直行,2012)。また,インド農村の地域開発においては近年NGOが重要な役割を果たしており,水や森林資源の地域共有資源の持続可能な自己管理・運営能力が育成されている(安田利枝,2001)。
上記の考察を踏まえると,農業生産向上を目的とする「緑の革命」や農業の近代化による過剰窒素や地下水などの生態環境の悪化は,農村の持続可能性を減ずる方向に作用している。その一方で,近年のインド農村は就業機会の拡大や農業生産と商品経済の連携を通じた経済的水準の上昇や伝統的なカーストを基軸とした社会関係が弱体化,自律的に村内社会や経済活動に関わる村内ステークホルダーが成長し,インド農村の持続可能性は高まっていると言える。
3.地域の地誌学的な考察の必要性
このような一見矛盾する結論に至る背景には,多くの研究に対象地域や農村が持つ自然条件を含む様々な要素のうち,主たる考察対象の要素に強く注目し,地域の持つ諸要素を包括的に,あるいは均等に取り上げる視点が弱いのではないかと思われる。
杉原薫(2010)は南アジアの経済発展経路を「生存基盤確保型」と呼んだが,不安定な生存基盤の中で如何にして地域社会や経済の安定や成長を実現してきたのかを理解するためには,地域の「生存基盤」として,人文社会的条件と自然条件を一体的に捉え,相互の関連を考察することが必要である。このような点で,例えば,藤原健蔵・貞方昇(1986)に見られるような,動態地誌学の視点に立った研究が必要であり,特に生態環境の悪化が指摘されるインド農村の持続可能性の研究においては,そのことが求められる。インド農村を全国的スケールの地域構造や地域格差と関連づけること(岡橋秀典,2014)や地域の脆弱性変化を動態的に理解すること(島田周平,2012)の必要性の指摘を踏まえると,地理学が伝統的に培ってきた,地域の特性や形成要因を把握する地誌学としての地域の捉え方が求められていると言える。