1.はじめに
遷急点(滝)の後退速度の推移は,気候変動に代表される環境変化の指標となりうる(高波,2019).しかしながら,単一の滝において異なる期間で複数の後退速度が推定された事例はナイアガラ滝(Philbrick,1970)に限られる.本研究では,歴史資料が豊富な沈堕滝において,過去約500年間にわたる遷急点の位置を復元し,その後退速度変化の有無を検討した.
2.沈堕滝の概要
沈堕滝は大分県の大野川中流部に所在し,大野川本流上の雄滝とそこから下流へ350 mの距離にある雌滝(支流の平井川の滝)とで構成される.沈堕滝の表面と上流側の河床は阿蘇4火砕流堆積物の溶結凝灰岩からなり,滝つぼよりも下流側の河床には白亜紀の堆積岩が露出する.雄滝のすぐ上流には水力発電の取水堰(1909年完成)があり,1952年以降は滝の後退を抑制する補強や修景工事(1998年完成)がなされた.吉田ほか(1998)は雄滝の平均後退速度を1〜2m/年(郷土史によれば150年で240 m)と見積もっているが,その推定根拠は詳しく述べられていない.
3.歴史資料による15世紀末以降の滝の位置
雪舟が沈堕滝を訪れた際の作品である『鎮田瀑図』には,雄滝と雌滝に相当する2つの滝が描かれている.これは1476(文明8)年当時,雄滝が平井川との合流点よりも上流側に存在し,過去約500年間における雄滝の総後退距離が350 m未満であることを強く示唆する.また江戸時代の地理書である『豊後国志』(巻之九,大野郡志)には,雄滝と雌滝との間の距離は1町(109 m)との記述がある.『豊後国志』編纂の経緯(佐藤,2018)から,これを唐橋君山らによる岡藩領内の現地踏査が行われた1799(寛政11)年の資料と認めた.さらに,宇都宮逵山『沈堕観瀑記』(1871年)や『大野川浚疎分間絵図』(1874年)には雄滝に現在と同様の滝つぼが描写されているため,明治初期には雄滝が現在位置より下流150 m以内まで後退していたと考える.20世紀には,大分合同新聞1957年8月27日朝刊によると,1909年に発電所堰堤が完成した時点の雄滝は現在よりも堰堤から60 mの位置(現在よりも40 m下流)にあり,1952年には左岸が堰堤まで5m,右岸は堰堤まで20 mであった.
4.地形図および空中写真による20世紀以降の滝の位置
当地域最古の地形図は,1903(明治36)年測図の5万分の1地形図「市場」である.同図上で平井川との合流点から雄滝までの距離を計測した結果、5万分の1地形図の水平方向の誤差35 m(地図上で0.7 mm)を含めても,当時の雄滝は現在よりも55(± 35)m下流にあった.
また,空中写真によって1947年・1974年・2008年の沈堕滝の位置を推定した結果,1947年当時の沈堕滝は現在よりも15(±10)m下流に存在したものと推定され,1974年および2008年においては前記のとおり滝の後退が抑制されたためにほとんど位置を変えていないことを確認した.なお,1974年および2008年の写真は国土地理院の地理院タイル(オルソ画像)を使用し,1947年米軍撮影の空中写真(1200 dpi)は小林(2013)の手順を参考にTNTmips2014(Microimage社)で簡易オルソ化したうえで雄滝の位置を測定した.具体的には1974年測図の2.5万分の1地形図「三重町」から空中写真に20点のコントロールポイントを与え,基盤地図情報数値標高モデル(10 mメッシュ)と対応づけて正射変換した.沈堕滝周辺のコントロールポイントにおける水平誤差(RMSエラー)は10 m未満であった.
5.沈堕滝の後退速度とその変化
以上により復元された過去の沈堕(雄)滝の位置から,雄滝は1476年〜1952年の約500年間でみると0.7m/年程度かそれよりも小さい速度で後退してきた,という結果が得られた.この値は阿蘇1火砕流堆積物溶結部における遷急点の後退速度(Hayakawa et al.,2008)よりも1桁大きいものであり,雄滝の集水域面積(約600 km2)の大きさが反映されていると考えられる.そしてより詳細には,後半の時期すなわち1800年頃〜1952年にかけて後退速度が増大しており,1〜2m/年と求められた.