日本における福祉の地理学は,少子高齢化とサービス経済化という社会環境の変化に応じて,主に介護と保育という2つの福祉サービスの領域において議論が進められてきた。1990年代まではいずれも施設の最適立地や近接性,自治体間のサービス需給格差が検討されてきたが,介護保険制度や児童福祉法の改正を通じた規制緩和と制度改革による福祉供給体制の再編を受け,よりミクロなスケールにおける福祉サービス需給の地域差を扱った研究が蓄積されている。
介護や保育といった福祉サービスは広義にはケア・サービスとして位置付けられ,英語圏では「ケアの地理学」(Geography of care)のなかで扱われ,発展してきた。本報告では,英語圏における1990年代以降の「ケアの地理学」の研究動向を概観するとともに,今後の日本における研究課題を考察する。
「ケアの地理学」は,施設や家庭において行われるケアの実践によって創り出される特定の空間や社会構造に着目しており,分野としての登場は概ね2000年代以降であった。福祉サービス需給に関する研究は,1990年代までは主に医療地理学(Medical Geography)の分野で蓄積されており,福祉国家の転換に伴う医療・保健サービスのリストラクチャリングや地方分権化を通じて顕著となった,行政域単位での医療・福祉サービスの需給格差が明らかにされた。
一方,2000年代以降の研究では,福祉供給体制に変化に伴い,新自由主義下における家庭でのケア責任やケア労働のジェンダー的側面が強く指摘されるようになった。ワークフェアの趨勢のなかで子どもや高齢者へのケアは家庭領域へと揺り戻されることとなり,ケアの主たる担い手である女性のワークライフバランスの確立が困難である状況が示唆されている。
近年の動向としては,主にケア労働力の移動と供給に焦点が当てられ,グローバル・ケア・チェーンの拡大が挙げられる。特にケア労働力としての移民を取り巻く,格差や搾取に関する問題が注目されつつある。また,女性の労働市場の参入の強化とともに,ケア・再生産活動に関する女性の意思決定が政策により統制され,個人の就労・生活・経済基盤が不安定となりつつあるなかで,家族や親族間でのケアの実践やインフォーマルなケアサービスの必要性が問われつつある。
欧米ではケアの担い手としての移民労働力は所与の存在であり,移民ケア労働者の移動や労働問題に関する論考は多く見受けられる。加えて新自由主義下における福祉供給体制の再編により,家族内外でのケア責任やインフォーマルな支援の強化も議論されている。同様に日本の福祉供給体制も規制緩和を通じて民間参入等が活発化したが,これは結果として外部サービスに依存するかたちでケアの社会化を推し進めた。
喫緊の政策課題として挙げられるケア労働力の確保についても,外部サービス需要を前提とした専門職としての労働力に焦点が当てられている。今後はこのような外部サービスの担う専門職としてのケア労働力の需給構造に影響を与える,労働者の主体性を考慮することが必要であるといえる。また家族や世帯構造の地域性に加え,ケアを取り巻く文化,制度,規範といったよりミクロな地域的文脈を追究することで,各家庭における育児・介護戦略といった「ケアの実践」の全体像を捉え,労働市場やサービス市場との関係性を明らかにしていくことも求められる。