日本地理学会発表要旨集
2020年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 205
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発表要旨
19世紀から20世紀前半の瀬戸内海・大三島におけるマニラ移民の送出とその地域的背景
*花木 宏直
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抄録

日本の本州と四国に挟まれた瀬戸内海には727の島嶼がある。瀬戸内海では近代以前より島嶼ごとにさまざまな出稼ぎ形態がみられ,近代以降は海外移民を多数送出した。これは島嶼地域の生産基盤の脆弱性ゆえやむを得ない選択ではなく,むしろ歴史的に常態化した島嶼地域特有の生計のあり方として捉えることができよう。本報告では,瀬戸内海の島嶼における出稼ぎから海外移民への展開とその要因について,大工の出稼ぎやマニラ移民が多かった大三島を事例に検討する。

 大三島は瀬戸内海中部,芸予諸島の中ほどに位置する。面積は64.58平方キロメートルで,瀬戸内海の島嶼では5番目に大きい。島の全域が愛媛県今治市に属し,口総地区をはじめ近世の藩政村に由来する13の地区がある。大三島を含め瀬戸内地方の地形は多島海であり,島の大半が傾斜地となっている。

 平地の少ない大三島では,19世紀にはすでに諸職への従事や出稼ぎが盛んに行われていた。江戸時代に大三島を領地としていた松山藩が作成した「諸願控」によれば,諸職従事者は大三島のすべての村でみられた。職種は大工や船大工,桶師,綿打などに細分化が進んでいた。一方,出稼ぎ者は諸職従事者より多かった。出稼ぎ先は島内だけでなく,大三島の周辺島嶼や本州,四国へ展開した。ただし,職種の大半は日雇であり,諸職従事者ほど細分化がみられなかった。出稼ぎ者のいない村もあり,村ごとの人口の多寡や縁故関係の有無が特定の村に出稼ぎ者の集中した要因と考えられる。

 20世紀前半については,口総地区を含む4地区を管轄していた岡山村が1920〜23年に作成した「岡山村勧業統計」によれば,大工や船大工,木挽,桶師,鍛冶,石工,瓦工,左官,杜氏などの諸職従事者が存在した。大三島では19世紀より諸職への従事や出稼ぎが常態化し,20世紀前半もこの状況が維持された。

 20世紀前半の出稼ぎとマニラ移民の実態について,口総地区を事例に検討する。口総地区でもとくにマニラ移民の多かった山腹の区域では,1935年頃に全98戸中26戸でマニラ移民が出された。主な職業は農業よりも大工や船大工が多く,これらの諸職に従事する世帯にて戸主や後継者とその家族がマニラへ移住する事例が多かった。大工や船大工以外の諸職に従事する者や,マニラだけでなく因島や大崎上島,呉,今治などの国内各地や大連など中国大陸への出稼ぎ者もみられた。

 口総地区全域からのマニラ移民53家族に注目すると,戸主の続柄は長男ないし後継者の比率が高かった。マニラ移民同士で親戚や姻戚関係者が多く,血縁や地縁などのつてで移住した。移住年次が新しいほど家族を口総地区に残しての渡航や単身世帯が多かった。戸主の経歴をみると,マニラ移住前には大三島周辺や国内各地,中国大陸で大工や船大工などの諸職や出稼ぎに従事していた。マニラ移住後については,1920年代前半までの移住者はマニラに長期間居住し経営者となった事例や,短期間居住したのち国内各地で経営者となった事例が多かった。1920年代後半以降の移住者は,先発移民が経営する洋家具店や造船所に就業した。マニラ移民は出稼ぎより高収入といわれていたが,送出世帯では必ずしも生計の向上がみられなかった。マニラ移民は第二次世界大戦の発生もあり,1940年代前半までに口総地区へ帰郷したが,帰郷後も大三島周辺で諸職に従事する者や近畿地方などへ再移住する者がみられた。

 口総地区や大三島の事例から,戸主やその家族が送出地域を基軸としつつ超域的に居住地移動しながらさまざまな職業に従事するという,瀬戸内海の島嶼や沿岸地域特有の生計のあり方がみいだせる。そして,歴史的に島内での就業や全世代同居に固執してこなかった様子が認められ,現代の離島の過疎化やその対応を検討する上で多くの示唆を与えてくれる。

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