平成29・30年改訂の高等学校学習指導要領解説には,次のような記述がある.
「例えば,ムスリムにおいては宗教と生活の関わりが一般に密接で,日々の生活の中に多くの宗教的な実践が組み込まれているが,その教えの基本的な部分において他の宗教と倫理的,道徳的な面での共通点も見られる.自他の文化を理解するに当たり,表面的な相違点を強調することは,その理解の妨げともなるので,その取扱いには十分配慮することが大切である」(文部科学省2018:55)
この記述は,平成21年改訂の学習指導要領解説から引き継がれている(文部科学省2009).本発表で詳しく述べるように,ムスリムは宗教と生活の関わりが一般的に密接という点には首肯できないが,表面的な相違点の強調が自他の文化の理解の妨げになるという主張に賛成する.しかし,地理の教科書(平成27〜29年検定)を見ると,イスラームやムスリムについては食の禁忌や5行(信仰告白,礼拝,断食,喜捨,巡礼),女性のヒジャーブといった表面的な特徴の記述に終始するのが現状である.これは,第1に,地理の教科書が当該地域の専門家以外によっても執筆されること,第2に,片倉もとこ氏や内藤正典氏の仕事を除いて,日本の人文地理学界には教科書執筆者が参照するであろうイスラームやムスリムに関する知の蓄積がほとんどないことに起因すると考えられる.
その一方で,近年は地理教育の分野においてイスラームやムスリムをいかに教えるべきかという議論が活発になされるようになった(中本2009;永田2012;荒井・小林編2020).その背景としては,日本に定住または短期滞在するムスリムの増加,ムスリムのテロリストの言動によるムスリム一般への偏見の高まりなどが挙げられる.しかし,先行研究が掲げるイスラームやムスリムに対する「ステレオタイプからの脱却」を目指すには,なお議論が不十分な状態である.本発表では,バングラデシュを主なフィールドとする日本人ムスリマの立場から,イスラームやムスリムについて教える上で,次の2点を提案する.
(1)イスラームとムスリムを切り離して捉えること.具体的には,イスラームをムスリムの言動から解釈しないこと,またムスリムの生活文化をイスラームに還元しないこと.
(2)イスラームの5行など,表面的なことのみではなく,信仰や論理などの内面的なことを生徒に理解可能な形で提示すること.
(1)については,誤解されやすいクルアーンの和訳文を例にして,イスラームについて理解するにはアラビア語やイスラーム学に関する深い知識が必要なことを示す.また,ムスリムの生活文化が様々な価値観や慣習から成るハイブリッドなものであることを,バングラデシュの事例をもとに検討する.(2)については,現世における礼拝や斎戒(断食)のメリットや,女性のヒジャーブの例から,イスラームが表面的な行いよりも内面の信仰を重視しており,日本人も共感できる論理を持っていることを議論する.