主催: 公益社団法人 日本地理学会
会議名: 2024年日本地理学会秋季学術大会
開催日: 2024/09/14 - 2024/09/21
ここでは,日本海とそれを取り囲む陸域を含む多国間空間(multilateral space)を環日本海域世界(Japan Sea Rim Region)と規定しておく。20世紀前半という近代期の環日本海域世界では,日本海を取り囲む複数の国家や地域が内外で発生した戦争や国際関係の変動等の諸事象(events)の影響を受け,相互間の諸関係やその構造を目まぐるしく変転させてきた。近世以前の日本海域は,各々の沿岸地域がその沿岸海域を水産資源の調達や沿岸海上交通路のための空間領域として意識し取り込むものの,大半の海域は沿岸諸地域相互間の交渉を阻む障壁性の高い空間であったと考えられる。しかしながら,近代以降の当該領域は,北東アジアにおける新たな政治経済的環境の下で,海上交通の発達とともに,沿岸諸地域間を結ぶ関係網の媒体となる広域的な多国間ネットワーク空間に変貌したと考える。特に近代日本に視点を置くと,日本海海域は,従前の沿岸海域のみを海上交通路・水産資源調達地域としての役割の上に,対岸地域進出のための交通空間として認識され,対岸航路の開設も進んだ。日本海を挟んで非対称な形であれ,各地域が海域を媒体に相互に連結し,それによって海域および沿岸陸域の全体に生成するネットワーク空間領域。それを演者は「近代環日本海域世界」と規定する。
本報告の目指すところは,近代環日本海域世界のネットワーク空間の構造を把握し,その成り立ち・ダイナミズムを歴史地理学的視角から説明すること,その状態を生ぜしめた要因やメカニズムについて,理論的な説明を試みることである。また,上で便宜的に規定した「環日本海域世界」について,その空間的な範囲を再考する。それはこのエリアの動向を強く左右するアクターが上記の環日本海沿岸地域の外側にもあり,むしろ日本(内地)と大陸の間のような対岸地域間の直接的な交流関係が,背後のより大きな空間に所在するアクターの振舞いによって影響されているとみられるからである。
なお,本研究で採用する基本的な理論とは,第一に複雑性理論とりわけアクターネットワーク理論(ANT)である(Farias and Bender 2010)。そこにスケール問題も考慮しつつ説明を試みたい。
本報告では副題にある通り,日本海沿岸地域に立地する港湾都市に視点を置き,それらの港湾都市がどのようなネットワーク空間を形成していたのか,その空間の中で港湾都市をはじめとするさまざまなアクターが,どのように関係づけられていたのかを主にANTに依拠して説明する。さらにそうした「関係」をもたらしたアクターや構造について,ANTに加えて構造化論や実在論さらにスケール問題(環日本海域地域の動態に対する地域空間,国家空間,多国間領域,国際社会空間の鬩ぎ合い)の考え方も援用しながら説明したい。
20世紀前半の環日本海域世界において,沿岸港湾都市はどのように位置づけられるのであろうか。その役割は主として貨物・旅客輸送の拠点としての役割である。近代日本において日本海沿岸に立地する港湾都市は,対岸地域との交易・旅客輸送の拠点であった。新潟,伏木(富山県),七尾(石川県),敦賀 (福井県),境(鳥取県)等が当時の有力都市であり,対岸地域との交易ルートを有していた。各都市の貿易額の推移をみると,敦賀,伏木,新潟が近代期の主要港湾であったことがわかる。そのうち,筆者は敦賀の動向に注目してきた (Yamane 2016)。敦賀は日露戦争期に貿易面では最高潮の時期を迎えるが,その後も欧亜連絡国際航路の起点としての地位を確立し,環日本海域世界において欠かすことのできない有力な地位にあるアクターであった。敦賀の有力商人であった大和田荘七に関する伝記や福井県対岸実業協会発行の『対岸時報』等の史資料を参照すると,この港湾都市というアクターが,当時の激動する国内外の情勢に影響されつつ,国内外の諸情報を入手し,東京で策定される国家的な対岸地域政策の下で,地元の事情にも配慮しながら,対岸地域との関係を主体的に構築していたことがわかる。それを近代環日本海域世界の枠組でみると,上述した多国間スケールを超えたより広大な空間的枠組の中で,港湾都市というアクターの対岸政策の実践という行為が決定され,外部空間を含めた広域アクターネットワークが構築されていたことがわかる。また,貿易量・額に関してみると,実は日本海沿岸港湾都市のみが当時の対岸貿易を担っていたわけではなく,太平洋側の港湾都市が担う部分が大であり,その点でも環日本海域世界の領域はより広く設定されるべきである。