抄録
【目的】ヒトは環境との相互関係を無意識に知覚し、安全にかつ効率よく動作を遂行している。臨床上、脳卒中片麻痺患者は明らかな空間失認等の症状がなくとも対象との相互関係を捉えることが困難な例があると感じる。それが障害物の回避や着座の場面であれば、転倒という事態を招くことも少なくない。そこで後方への着座という課題を通し、対象物との距離感および自己の運動能力の捉え方について調査を行った。
【対象】明らかな視空間失認・半側空間無視の症状を認めない脳卒中片麻痺患者10名(右片麻痺6名,左片麻痺4名,平均年齢66±15歳)。発症からの期間1ヶ月~3年9ヶ月。起立・着座動作は全員自立レベル。また健常者9名(平均年齢54±17歳)を対象群とした。
【方法】被験者の後方にある椅子(高さ43.5cm,幅40cm,奥行43cm,背もたれ付)を少しずつずらし、安全に座ることのできる最大距離(実測値)を測定した。実測値を基点とし、基点から2cm刻みで-10cm~+10cmにおける“安全に座れる”・“安全に座れない”の判断を二件法で求めた。視覚的判断は無作為に3回行い、“安全に座れる”と判断した最大の値(見積もり値)を視覚的転換点とした。測定で得られた実測値および見積もり値を下肢長(大転子~床面)で除すことで体格差を補正し、健常群・片麻痺群での視覚的転換点の比較、および実測値に対する見積もり値の割合の比較を行った。
【結果】視覚的転換点は、健常群が基点より-2cm~+4cmに集中しているのに対し、片麻痺群では±0cm~+6cmの間に集中していた。また片麻痺群の中には、±10cmの範囲内に視覚的転換点が存在しないケースや、基点付近に視覚的転換点が存在しているにもかかわらず、さらに遠位で“安全に座れる”と判断したケースがあった。障害側間の比較では、右片麻痺患者より左片麻痺患者で視覚的転換点は高値であった。実測値に対する見積もり値の割合は、健常群が“1”付近で一定していた。片麻痺群に関しては個体間のばらつきが大きく、その中でも左片麻痺患者のばらつきは、右片麻痺患者より大きい結果となった。
【考察】一般に片麻痺患者は前方の対象物との奥行や横幅などの空間認知障害を呈することがあると知られている。本研究で、片麻痺患者は後方においても自己の身体能力を過大評価する傾向があり、空間と運動能力の捉え方に障害を呈すことが示唆された。また、左片麻痺患者においては個体間の差が大きく、理学療法を実施する上で個々の患者の障害を多角的に評価する重要性が再認識された結果となった。今回の調査は立位という静的場面での判断であり、ADL上ではほとんどが動的場面での判断を要求される。また、多くの知覚情報を同時に処理しなくてはならず、そのため脳卒中片麻痺患者は判断ミスによる転倒・転落の危険性が高まることが予測される。今後は症例数を増加し、障害像ごとの検討をしていきたい。