抄録
【はじめに、目的】 自己運動錯覚(錯覚)とは,体性感覚入力や視覚入力により,現実には運動をしていないにもかかわらず,あたかも自己の四肢が運動しているように錯覚することをいう。脳機能イメージングや生理学的手法により,錯覚最中には一次運動野を含む運動関連領野の賦活あるいは皮質脊髄路の興奮性が増大することが示されてきた。このことは,脳卒中片麻痺症例における異常半球間抑制に対する治療や運動学習の促進に対して,この方法が貢献できる可能性を示す。本研究では,視覚入力で錯覚を引き起すための新たな方法を開発し,その方法で生じる主観的感覚を心理物理学的指標によって定量的に示すことを目的とした。【方法】 16名の健康な成人を対象にした。被験者は,実験に先立ち,自己運動錯覚とは何かという説明を十分に受けた。その後ベッド上に背臥位となり,ヘッドカバーを装着されて自己身体が視野に入らない状況下におかれた。前腕を腹部に置き,体性感覚入力を生じないように工夫された。被験者は,ヘッドカバーの頭側に開けられた穴から,鏡を通してスクリーンを見ることができた。スクリーンは,ベッドから3m離された場所に設置されていた。ベッドの上方向(被験者の腹側)の30cm程度離れた空間にカメラを設置し,被験者の指先から前腕までが画角に修まるように調整した。そのカメラで写している映像を実時間でスクリーンに投影した。結果として被験者は,手指と手関節の運動を行なった場合に,鏡を通してスクリーン上に自分が行なっている運動をみることができた。数分間,被験者は自分の身体運動とスクリーン上の動画とがマッチしていることを認識するために,手指と手関節を動かしながら動画を観察した。その後,規定の方法で手関節の背屈と掌屈を反復し,その運動を動画として記録した。それ以降,被験者は安静を保ち,記録された動画が投影されているのを観察するように指示された。動画は30秒間投影され,その後,観察中に自己運動錯覚を知覚したかどうかを質問した。錯覚を知覚した場合には,オリジナルのコンピュータプログラムと知覚を申告するスイッチを用いた検査を行い,動画を開始した時間から自己運動錯覚を知覚した時間までの時間遅れを計測した。初回から錯覚を知覚したかどうかにかかわらず,時間遅れ2秒以内に自己運動錯覚を知覚できるようになるまで,トレーニングとして動画観察を反復して行わせた。一日のトレーニング時間は休憩を含めて1時間程度とした。最終的に,2秒以内で錯覚を知覚できるようになった場合に主観的な錯覚強度を質問し,ビジュアルアナログスケール(VAS)で示した。VASは,運動方向と3相に分類した運動角度毎に調査した。VASは,運動方向と運動相の2要因について,反復測定による2元配置分散分析を行った。【倫理的配慮、説明と同意】 本研究は,ヘルシンキ宣言に基づき,事前に研究目的や測定内容等を明記した書面を用いて十分な説明を行った。その上で,被験者より同意を得られた場合のみ測定を開始した。【結果】 14例の被験者が,2-8日間のトレーニングにより,時間遅れ2秒以内で錯覚を知覚するようになった。14例の被験者における平均(±SD)の錯覚知覚時間遅れは,1.67 (0.26) secであった。運動方向と運動相で区別しない総合的な錯覚の強さを表すVASは,77.0mmであった。統計学的に,運動方向と運動相のそれぞれの要因に主効果がなく,交互作用が有意であった。多重比較により,掌屈が最大に近い運動相では背屈よりも掌屈運動時の方が有意に強く錯覚を引き起していることが示された。 また,掌屈運動において,より掌屈角度が大きくなる運動相で強い錯覚を生じたことが示された。【考察】 我々の過去の報告では,被験者の四肢末端が本来あるべき場所で,末梢部位と動画が連続するように設置したモニタ上に動画を映写することで錯覚を誘起していた(Kaneko F, 2007)。またその追試において,提示した動画を映された場所が本来の四肢末端のあるべき場所からずれていた場合には,錯覚が引き起されないことが明らかとなった (Kaneko F, 2009)。それに対して今回は,身体が本来は存在しない場所へ設置したスクリーンに動画が投影された。本研究は,自己身体の存在しないような遠隔場所に動画が映された場合であっても,視覚刺激によって錯覚を引き起こすことが可能であることを示した初の報告である。また,その強さは運動相の影響を受けることが明らかとなった。【理学療法学研究としての意義】 遠隔的に投影した動画で錯覚を誘起できれば,錯覚の誘起を運動学習に応用する際の臨床的簡便性が格段に高まる。また,今回の錯覚誘起方法を用いれば,機能的脳機能イメージングで錯覚中の脳活動を探索することができるようになり,臨床応用のための理論構築に貢献できる。