抄録
【はじめに、目的】臨床では、関節に作用する筋の全体的な筋張力低下が生じる場合もあるが、特定の筋の筋張力のみが低下し筋張力バランスに異常が生じることも多い。後者の場合、一般的には他の筋が代償的に筋張力を増加させて、動作の遂行を可能にする。このような現象は、臨床的には患者の障害像を分析することで推測されているが、個々の筋張力低下が他筋や関節に与える影響を厳密に分析することは困難である。また、実験的にも特定の筋の張力のみを低下させてその影響を調べることは容易ではない。そこで本研究では、コンピューター上での数値計算による順動力学シミュレーション解析を行い、下肢の特定の筋張力を低下させた筋骨格モデルを作成しそれが他筋や関節負荷に与える影響を明らかにすることを目的とした。【方法】各動作について筋骨格モデルを作成するために、立位・歩行に問題が生じる疾患を有さない健常男性1 名(年齢20歳、身長1.79m、体重64kg)の動作を測定した。測定課題は、自由歩行、段差(230mm)の昇段および降段動作とした。3 次元動作解析装置(VICON社製)と床反力計(Kistler社製)を用いて、各課題とも安定して行えた試行を3 試行を記録した。なお、筋骨格モデルの妥当性を筋活動パターンの側面から確認するために、大殿筋、大腿直筋、半腱様筋、外側広筋、腓腹筋、ヒラメ筋の筋電図を同時に記録した(Noraxon社製表面筋電計)。次に、測定した運動学的データを基に、全ての試行についてシミュレーションソフト(Lifemodule社製)を用いて筋骨格モデル(片側下肢につき45 筋を装備)を作成した。順動力学解析により、動作時に大殿筋、腸腰筋、大腿直筋、ハムストリングス(大腿二頭筋長頭+半腱様筋+半膜様筋)、広筋群(外側広筋+内側広筋+中間広筋)、腓腹筋、ヒラメ筋の各々が発揮する筋張力を算出した。また、動作時に股・膝・足関節に生じる関節間力も求めた。分析は、各動作3 試行それぞれについて、筋張力バランスを変化させない条件(normal)、大殿筋、腸腰筋、広筋群、ヒラメ筋それぞれの張力を0Nとした条件(Gmax0、Iliop0、Vasti0、Sol0)でシミュレーション解析を行い、各筋の張力および関節間力の最大値を比較した。なお、各動作について3 試行の平均値を用いて比較分析を行い、Normal 条件よりも± 10%の増減があった場合を有意な変化とした。【倫理的配慮、説明と同意】対象者には本研究の主旨を書面及び口頭で説明し、参加への同意を得た。【結果】歩行、段差昇降ともに筋骨格モデルの筋張力変化パターンと筋電図による筋活動パターンとは、ほぼ同様のパターンを示した。歩行では、normal条件と比較して、Gmax0 条件でハムストリングスと広筋群に、Vasti0 条件では大殿筋とヒラメ筋に、Sol0 条件では広筋群と腓腹筋に筋張力増加を認めたが関節間力の明らかな変化はなかった。一方、Iliop0 条件では、大腿直筋と腓腹筋の張力が増加し、膝関節間力が15.5%増加した。昇段動作では、Gmax0 条件ではハムストリングス、大腿直筋、腸腰筋に、Sol0 条件では大腿直筋に筋張力増加を認めたが、関節間力の明らかな増減はなかった。一方、Vasti0条件では大殿筋、大腿直筋、腓腹筋、ヒラメ筋の張力が増加し、股関節と足関節の関節間力がそれぞれ117.0%、63.0%増大した。降段動作では、Gmax0 条件ではハムストリングス、腓腹筋に、Iliop0 条件では広筋群と腓腹筋に、Sol0 条件では腓腹筋に筋張力増加を認めたが、関節間力の増減はなかった。しかし、Vasti0 条件では大殿筋とヒラメ筋に筋張力増加を認め、股関節と足関節の関節間力がそれぞれ179.0%、16.6%増大した。【考察】歩行においては、大殿筋や広筋群、ヒラメ筋の張力低下に伴い、立脚相における重力に抗した伸展活動のために、他の筋群が代償的に張力を増加することが示された。一方、腸腰筋の張力低下では、立脚後期から遊脚期にかけての腸腰筋の作用を代償するため大腿直筋と腓腹筋が張力を増し、その結果、これら二つの筋が関与する膝関節で関節間力が増大したと考えられる。段差昇降においては、特に広筋群の張力が低下した場合に大きな影響がみられ、下肢の伸展作用および屈曲の制動のために股・足関節周囲筋が代償する必要が生じ、その二関節で関節間力の大きな増加が確認された。【理学療法学研究としての意義】シミュレーション解析により、実際のヒトを用いた実験では観察することができない筋個々の張力低下による他筋や関節負荷への影響が明らかとなった。本研究は、動作時における筋の役割の理解の一助となると考えられる。