抄録
【はじめに、目的】 アルツハイマー病(AD)患者をはじめ認知症患者において,上肢動作や歩行の運動パフォーマンスの低下が多く観察されている.AD患者の運動制御の病態に迫るには,運動制御学的観点から行動実験を行うことが必要である.われわれはAD患者と軽度認知障害(MCI)の高齢者を対象に,お茶入りのプラスチックボトルを用いた持ち上げ運動中の机反力を経時的に記録し,持ち上げ物体の視覚情報や持ち上げ運動経験から得られる体性感覚記憶情報の利用能と,認知機能低下との関係を調べた.【方法】 対象は参加の同意が得られたデイサービスを利用する高齢者20名で,10名のAD患者(AD群,72-86歳,CDR ≧ 1,MMSE ≦ 25, FAB ≦ 15)と,年齢と性別をマッチングした10名の健忘型MCIの者(MCI群,77-89歳,CDR = 0.5,MMSE ≧ 26, FAB ≧ 10)とした.実験課題はボトルの持ち上げ運動の快適速度での反復で,被験者には,正面のプラットホーム上にあるボトルを持ち上げ,右側のプラットホーム上に移動するよう指示した.ボトルには,お茶が入った100gと500gのものを用意し,ボトルの色には,外からお茶の量が見える透明条件と,見えないよう黒く塗装した不透明条件を作製した.正面のプラットホームはロードフォースセンサーを内蔵し,持ち上げ力の経時的変化を記録した.被験者は次のような順序で,持ち上げ運動の反復(1セット約20回)を行った.まず,100gまたは500gで行う一定重量課題を4セット(透明・不透明条件と各重量の組み合わせを1セットずつ),反復途中で100gから500gへ予告なく変更される重量変更課題を6セット(透明・不透明条件を交互に3セット)行った.プラットホームから得られた持ち上げ力の経時的情報から,2つの運動パラメータを算出した.すなわち,持ち上げ力が加わってからボトルが離床するまでの期間(持ち上げ期の時間)と,持ち上げ期における持ち上げ力微分値の最大値の2つである.重量変更前後の1試行について,群×透明性(2×2)の2元配置分散分析を用いて検定した(p < 0.05).【倫理的配慮、説明と同意】 対象者とその家族には本研究の主旨および目的を口頭と書面にて説明し同意を得た.本研究は大阪大学医学部附属病院臨床研究倫理審査委員会の承認を受けて実施した.【結果】 一定重量での持ち上げ運動では,いずれの運動パラメータにも群間に有意差を認めなかった.また,不透明条件の重量変更課題では,先行重量である軽重量の持ち上げ運動経験の影響で,両群ともにアンダーシュート現象(定常状態の持ち上げより,持ち上げ期が延長し,最大微分値が低値となる現象)を認めた.具体的には,持ち上げ力最大微分値は,一定重量課題の持ち上げと比べ,両群とも40%減少し,持ち上げ期はMCIで50%の延長,ADで200%の延長を認めた.一方,透明条件の重量変更直後1回目の持ち上げ運動では,2つの運動パラメータに有意な群間差を認め,AD群のほうがMCI群よりも大きいアンダーシュート現象を認めた.これらからは,AD群はお茶の容量情報を持ち上げ運動に利用することが障害されているようにみえる.しかし続く重量変更後2回目の持ち上げ動作では,AD群は,不透明条件より透明条件のほうが,アンダーシュート現象からの回復は大きかった.【考察】 一定重量のボトルの持ち上げ運動の反復では,ADとMCIは同等の運動パフォーマンスで行うことができた.反復されるボトル持ち上げ運動中に,軽重量と重重量に対応する運動プログラムの切り換えが求められた場合,視覚情報に基づく予測的な切り換えか,1回持ち上げた後の体性感覚記憶に基づく運動プログラムの修正を行うかが必要となる.今回の結果からAD患者は,MCIをもつ高齢者と比較して,視覚情報や体性感覚記憶に基づく運動プログラムの修正機構は残存するが,視覚情報の変化に反応して予測的に運動プログラミングを修正する機構が障害されている可能性が示された.今後はこれらの理解を深めるため,反復運動中に起こる対象物の視覚情報の変化を注意・認知する機能や,反復運動以外での運動予測機能について調べる必要があると考える.【理学療法学研究としての意義】 認知症患者のリハビリテーションニーズが今後増加することは確実である.そのため,認知症患者にみられる運動パフォーマンスの低下の要因を知ることは,理学療法士の専門的介入(環境調整や運動トレーニングの提案)を発展させる上で重要である.しかしながら,このような研究分野は実験方法が未確立であり,運動制御の病態に迫る研究が遅れている.本研究は,認知症患者に対し,実験的拘束条件や認知的負荷の少ない日常動作課題を適用し,予測運動制御上の問題を明らかにした点に意義があると考える.