抄録
【はじめに、目的】軽度認知障害(mild cognitive impairment; MCI)は記憶機能や注意機能の低下を特徴とし、アルツハイマー病の前段階として位置づけられる。近年、MCIを有する高齢者は、認知機能だけでなく運動機能にも低下がみられることが知られており、認知症発症リスクを増加させることも明らかになっている。認知障害を有することにより転倒リスクは5倍になるとされるが、MCIにおける転倒リスク関連要因はほとんど明らかになっていない。我々は、運動と認知の機能低下が相乗的に転倒リスクを増大させていると考え、MCIにおける転倒リスク評価には、その両方が要求される課題が適しているという仮説を立てた。本研究では、視覚刺激に選択的注意課題を用いたステップ反応分析に着目した。本研究の目的は、運動機能と認知機能を同時に要求する評価課題により、MCI高齢者における転倒リスク要因を明らかにすることである。【方法】対象は2011年8月~2012年2月に実施されたObu Study of Health Promotion for the Elderly (OSHPE) に参加した65歳以上の地域在住高齢者5,104名のうち、Petersonの定義によりMCIと判定される376名(平均71.6歳)とした。その他の神経学的疾患を有する場合は除外した。測定課題は、前方のモニターに表示される視覚刺激(矢印)の示す方の足をできるだけ早く30cm前方に踏み出すこととした。視覚刺激は選択的注意課題であるFlanker taskを用い、5つの矢印(→→→→→; Congruentまたは→→←→→; Incongruent)の表示に対して中央の矢印の示す方向の足を踏み出すよう指示した。2枚の重心動揺計(Anima社製)で測定した床反力垂直成分のデータから、ステップ動作時間(開始合図から遊脚側接地まで)を求め、(a)反応相:開始合図から、一側への体重移動開始(体重の5%以上の移動)まで、(b)Anticipatory Postural Adjustment(APA)相:体重移動開始から遊脚側離地まで、(c)遊脚相:遊脚側離地から接地まで、の三つに細分化した。APA開始時に通常とは逆に立脚側への体重移動が生じた場合を潜在エラーと定義した。CongruentとIncongruentの各条件について5試行の平均値を求めた。また、バランス機能のうち、歩行との関連でTimed Up & Go Test (TUG)、筋力との関連で5 chair stand test、一般認知機能評価としてMini–Mental State Examination (MMSE)、選択的注意機能の座位での個別評価として上肢での反応によるFlanker task反応時間を測定した。さらに過去1年間の転倒経験の有無を調査し、転倒群と非転倒群にグループ分けを行った。統計解析は、ステップ動作の時間因子については、群と潜在エラーの有無を固定効果、被験者を変量効果とした線形混合モデルを用いて検討した。その他の変数については、対応のないt検定により、転倒の有無による比較を行った。有意水準は5%とした。【倫理的配慮、説明と同意】対象者には本研究の主旨および目的を口頭と書面にて説明し、同意を得た。実施主体施設の倫理・利益相反委員会の承認を受けて実施した。【結果】年齢、性別、TUG、5 chair stand test、MMSE、上肢による座位でのFlanker task反応時間には、非転倒群(339名)、転倒群(37名)で有意な差はみられなかった。ステップ反応分析において、Congruent条件における各時間因子には、群間に有意差はみられなかった。Incongruent条件でのAPA相は、群の固定効果(p=0.04)および群とエラーの有無による交互作用(p=0.005)がみられ、特に潜在エラーありの場合に非転倒群(0.62s)に比較して転倒群(0.71s)で遅延していた。潜在エラーなしの場合に比較すると、非転倒群では52%、転倒群では76% の増加がみられた。【考察】MCI高齢者の転倒リスクは、従来までの運動機能や認知機能の個々のパフォーマンス評価では検出不可能であった。これに対して、選択的注意課題に対するステップ反応分析では潜在エラー、すなわち運動時の判断ミスの影響が、予測的姿勢調節の遅延として顕在化したため、転倒リスクを検出可能であったものと考えられる。MCI高齢者では、運動時に即時の判断や注意が必要とされる状況において、転倒が生じやすい可能性が示唆された。【理学療法学研究としての意義】運動と認知の両方を要求し、運動の場面における注意、判断の過程に負荷を加えることで、MCIの転倒リスクを抽出できることが示された。今後は、評価方法の確立に留まらず、効果的な転倒予防のための理学療法プログラムの開発にも寄与すると考える。