抄録
【はじめに、目的】つまずきは高齢者の転倒要因の50%にも達するとされており、つまずきの大部分は障害物回避の失敗によって生じている。安全な障害物回避のためには、跨ぐ前の段階から合理的な歩行戦略を適用する必要がある。Chenら(1994)は、健常成人では障害物を跨ぐ2 歩前以降、高齢者では3 歩前以降で歩幅の調節を行うとしており、跨ぎ動作そのものよりも跨ぐ前の歩行を分析することが重要であると考えられる。また、照度変化は転倒リスクに関連する環境要因であり、高齢者では、暗い照度下で歩幅の減少とそれに伴う歩行速度の減少が生じる。さらに照度の低下は段差や障害物の視認性を大きく低下させるとされていることから、照度が変化した場合には、障害物回避前の歩行戦略が異なる可能性がある。そこで本研究の目的は、照度変化が障害物回避時の歩行戦略に及ぼす影響を明らかにすることである。【方法】対象者は健常成人18 名(年齢22.5 ± 3.15 歳)とした。課題は、10mの自由歩行とし、障害物の有無及び照度条件を明るい・薄暗い・暗いの3 条件に変化させた計6 条件を設けた。測定順はランダムとし、各条件につき4 試行、計24 試行を行った。条件を変更する際に、前試行の暗順応の影響を除去するため、明順応に必要とされる5 分間の休憩時間を明るい照度下で各試行間に設けた。障害物(高さ15cm)は、毎試行7.5m〜8.5mの間でランダムに設置した。裸足で足底にラインパウダーを塗布して黒いゴムマット上を歩行することで、測定区間内の歩幅に加え、歩行時間、歩数を計測した。統計処理は、歩幅については照度と障害物までの歩数を、測定区間の平均歩幅と歩行率については照度と障害物の有無を2 要因とした二元配置分散分析及び事後検定を用いた。さらに、障害物あり条件における歩行調節の開始時点を同定するため、歩幅の変化率を連続する各歩数毎に算出し、通常歩行(明るい・障害物なし)時と比較した。有意水準は5%とした。【倫理的配慮、説明と同意】所属施設の生命倫理審査委員会の承認を得た上で行った。被験者には、個別に研究内容の説明を行い文書で同意を得た。【結果】照度は、明るい条件で582lux、薄暗い条件で0.0125lux、暗い条件で0luxであった。明るい条件(歩幅:68.4 ± 7.51cm、歩行率:112.4 ± 7.06 歩/分)に対して、薄暗い条件では歩幅の大きさ(65.3 ± 7.37cm)に有意差はなく、歩行率が有意に小さかった(109.0 ± 8.34 歩/分)。暗い条件では歩幅(52.4 ± 10.8cm)、歩行率(82.8 ± 21.4 歩/分)ともに有意に小さかった。また、明るい及び薄暗い条件の障害物あり条件(明るい:15.7%、薄暗い:21.0%)では明るい条件の障害物なし条件(-1.90%)に比べて、跨ぎ動作時の歩幅の変化率が有意に大きく、跨ぎ動作時に歩幅が増大することを示した。暗い条件では、明るい条件の障害物なし条件に対して跨ぎ動作時の歩幅の変化率が有意に大きいことに加え、3 歩前、2 歩前で有意に小さく(明るい・障害物なし:3 歩前 -0.57%、2 歩前 -0.77%、跨ぎ動作 -1.90%)(暗い・障害物あり:3 歩前 -8.45%、2 歩前 -10.9%、跨ぎ動作61.2%)、障害物の3 歩前、2 歩前で歩幅が減少し、跨ぎ動作時に増大することを示した。【考察】明るい条件では障害物の跨ぎ動作時に歩幅を拡大して調節していた。薄暗い条件では、歩幅の大きさ及び調節の開始は明るい条件と同様であったが、歩行率は明るい条件に対して有意に減少した。先行研究では、障害物の高さは接近する過程で視覚認知され、この情報によって跨ぐ時の足の運動軌跡が前もって計画されるとしている。本研究では、照度が低下して薄暗くなったことで視覚情報入力が少ないため、歩行率を減少させて視覚認知に必要な接近時間を増加させていると考えられる。暗い条件では、歩幅は、明るい及び薄暗い条件に対して有意に小さく、障害物の少なくとも3 歩前から2 歩前まで減少させ、1 歩前から拡大することにより調節することが示された。また、歩行率は、明るい及び薄暗い条件に対して有意に小さかった。歩行率が100 歩/分を下回ると歩幅と歩行率の比が一定でなくなり、そのとき重心の側方変位が急増するといわれている。これらのことから、暗い条件下では自由歩行から逸脱した不安定な歩行となっている可能性がある。また、歩幅と歩行率の双方を減少させることで、障害物の視覚認知に必要な接近時間を確保していると考えられる。以上より、3 つの異なる照度条件で歩幅と歩行率の調節が異なることが明らかとなった。【理学療法学研究としての意義】本研究は、照度を変化させた際の標準的な障害物回避戦略を明らかにすることで、有疾患者や転倒リスクの高い高齢者における逸脱した戦略を解明し、安全な移動能力獲得に向けた理学療法プログラムを開発するための基準となる情報を提供する点で重要な意義を有すると考える。