抄録
【はじめに、目的】 定常状態に至った歩行は中枢パターン発生器(central pattern generator)による自動かつ律動的な動作である。しかし、定常に至るまでの歩行開始時は複雑な姿勢制御を要する不安定な過程である。日常生活上では、「遠くから呼ばれる」「信号が変わる」「手を引かれる」など様々な刺激を感覚受容することで歩行が開始される。これらの合図、つまり外的cueは臨床場面では歩行練習時に提示されることが多く、パーキンソン病患者では外的cueの違いが歩行パフォーマンスに影響することがよく知られている。しかし、健常高齢者に対する歩行開始の外的cueの違いが歩行パフォーマンスへ及ぼす影響は不明である。歩行開始時のパフォーマンス低下がみられる高齢者は転倒リスクが高いことが報告されており、歩行開始の外的cueの影響を検証することは安全な歩行や転倒予防のための適切な歩行開始刺激を確認するために重要と考えられる。そこで、本研究の目的は聴覚、視覚、触覚刺激による歩行開始の外的cueの違いが高齢者の歩行開始時パフォーマンスや安定性に与える影響を検証することとした。【方法】 対象は施設入所高齢者のうち杖歩行もしくは独歩での自力歩行が可能な20名(平均年齢85.4±7.4歳)とした。なお、測定に大きな影響を及ぼすほどの重度の神経学的・筋骨格系障害および認知障害を有する者は対象から除外した。左右どちらの足から歩行を開始するかという外的cueを検者が出した後、できるだけ速く歩行する課題を行った。歩行開始の外的cueとして、歩き始める足を検者が口頭で「右」もしくは「左」と指示する聴覚刺激、被検者の左右いずれかの肩を検者が前方から指さす視覚刺激、後方から被検者の左右いずれかの肩に触れる触覚刺激の3パターンの測定を行った。スタート地点から2m、7m地点に光電管を設置し、各地点の通過時間を計測した。2mまでを歩行開始時、2~7m間を定常歩行と規定して、各所要時間を求めた。また三軸加速度センサーを腰部に装着し、歩行開始から6歩目までの各踵接地時間を測定し、その6歩分の踵接地時間の変動係数(標準偏差/平均×100%)を歩行開始時での安定性の指標として算出した。 統計解析では3種類の歩行開始刺激を要因とした反復測定一元配置分散分析及びTukey-Kramerの多重比較検定を行った(有意水準5%未満)。【倫理的配慮、説明と同意】 対象者には口頭にて本研究の目的について十分な説明を行い、同意を得た。【結果】 各刺激での歩行開始時の所要時間は聴覚2.85±0.70秒、視覚2.85±0.72秒、触覚3.12±0.68秒であり聴覚、視覚刺激に比べ触覚刺激で有意な延長を認めた(p<0.05)。定常歩行での所要時間は聴覚4.69±1.28秒、視覚4.77±1.26秒、触覚4.69±1.24秒であり、有意差は認めなかった。踵接地時間の変動係数は聴覚5.9±4.3%、視覚6.0±4.1%、触覚10.9±4.8%であり、聴覚、視覚刺激に比べ触覚刺激で有意な増加を認めた(p<0.01)。【考察】 触覚刺激によるcueは他の刺激に比べ歩行開始時のステップのばらつきを増大させ、歩行時間の延長をもたらした。このような歩行開始時の不安定化、パフォーマンスの低下は高齢者の転倒リスクにも繋がる危険性が高い。触覚刺激は運動器官に直接的な刺激を与えるため、刺激の加わった部位の反応には効果的であると考えられる。しかし、本研究では刺激部位が肩であったため下肢の運動開始には有効とならなかったと考えられる。運動器官への直接的な刺激であるがために刺激部位や刺激の加え方に留意しなければ非効果的な影響も他の刺激に比べ強くなってしまう危険性を孕んでいると言える。今後は刺激部位なども考慮した検討が必要であると考える。 本研究の結果、定常歩行時間には刺激による違いがみられなかったが、歩行開始時の時間にはみられたことから、聴覚情報や視覚情報は運動器官に適切な遠心性入力を送るための情報処理の段階で有利であることが考えられ、歩行開始の誘導を行う際には聴覚刺激や視覚刺激を利用したcueの提示が有効となる可能性が示唆された。【理学療法学研究としての意義】 歩行を開始して定常歩行に至るまでの過程におけるパフォーマンスを向上することは転倒予防の観点からも重要である。本研究から外的cueの種類の違いは高齢者の歩行開始時の安定性やパフォーマンスに影響を与えることが確認された。つまり高齢者に対しては触覚刺激よりも視覚や聴覚刺激を利用した合図のほうが歩行開始の安定化やパフォーマンスの向上に有効である可能性が示唆された。この結果は歩行介助者への指導やセラピストが歩行練習を行う場合の有益な情報となると考えられる。