抄録
【はじめに、目的】高齢者の転倒による外傷の約25%以上がスリップで生じている.高齢者のスリップからの姿勢回復には足関節制御より股関節制御を優位に使う傾向にあり,円背姿勢ではその傾向が強調される.また円背姿勢からのスリップは後方転倒の危険性が高く,結果として股関節骨折等に加え,後頭部を強打する等重篤な外傷を引き起こす危険性が高い.これまで,姿勢不良がスリップに与える影響は報告されてきたが,杖使用が,実際のスリップ場面での姿勢回復へどのような影響を及ぼすか十分に調査されていない.本研究の目的は,正常姿勢アライメントでのスリップと実験的に作成した円背姿勢でのスリップとの運動学的特性の比較および杖使用の有無がスリップ後の姿勢回復反応に及ぼす影響を調査する事である.【方法】対象は健常成人21名(男性13名,女性8名,平均年齢21.8±0.9歳)とした.スリップ誘発方法はPET板2枚(静止摩擦係数0.08)の間に潤滑剤を塗布したものを床反力計上に設置し,歩行中にPET板を右足で踏む事でスリップを誘発した.尚,スリップ誘発箇所は被験者に分からない様にビニルマットで隠した.測定手順は,1. 正常姿勢でのスリップ(正常姿勢),2. 円背姿勢でのスリップ(円背姿勢),3. 円背姿勢+T字杖でのスリップ(円背+杖)の3条件を,無作為に各1回施行した.円背姿勢は身長の90%になるよう,両大腿部と体幹をベルトで固定した.杖歩行はT字杖左手把持にて2動作歩行を指示した.歩行速度は任意とし,歩行時の視線は前方に固定する様に指示した.不随意のスリップを生じさせる為,被験者には,スリップ位置・タイミングは説明しなかった.スリップ時の運動学的解析には3次元動作解析装置(アニマ社製)を使用し,反射マーカーは両下肢の腸骨稜,大転子,膝関節外側裂隙中央,外果,第5中足骨頭に貼付した.測定項目は1. 各姿勢条件下でのスリップ距離,2. スリップ時の膝関節伸展開始から姿勢回復の為に屈曲モーメントが働き始めた時点とスリップが停止された時の屈曲モーメントとの差(右膝関節モーメント変化).3. 姿勢回復の為の股関節伸展モーメント変化および足関節背屈モーメント変化とした.またスリップからの姿勢回復能力の指標として足関節背屈,膝関節屈曲および股関節伸展モーメントの発生し始めた時点での足圧中心(COP)と体重心(COM)間の距離とスリップ停止時における両者の距離との変化(COP-COM間距離変化),スリップ開始時と停止時のCOM下降距離も算出した.【倫理的配慮、説明と同意】対象者には研究の目的を口頭にて説明し,自由意思にて参加の同意を得た.【結果】各姿勢条件間におけるスリップ距離には有意な差は認められなかった.右膝関節屈曲モーメント変化量は円背姿勢では円背+杖条件より有意に小さかった(p<0.05).右股関節伸展モーメント変化量は円背姿勢では正常姿勢と比較し有意に小さかった(p<0.05).足関節背屈モーメント発生時のCOP‐COM距離変化量は正常姿勢では円背姿勢および円背+杖と比較し,有意に大きかった(p<0.05).股関節伸展,膝関節屈曲モーメント発生時の距離変化は有意な差は認めなかった.COM垂直移動距離は各測定条件間に有意な差は認めず,正常姿勢では他の条件に比較して小さい傾向だった.【考察】各姿勢条件間でスリップ距離に差は認められなかった事については姿勢変化に伴う歩行の速度やストライド距離の変化が影響していると考えられる.本研究の被験者では実験的円背姿勢では両者が有意に減少していたことから,姿勢間の厳密な比較には今後,歩行速度の統一化が必要と考えられた.不良姿勢と杖使用との関係性では,本研究の結果,円背姿勢での杖使用は,スリップ後の姿勢回復時に膝関節屈曲モーメントを発揮しやすいことが示唆された.スリップ後の重心下降に関しては各測定条件間で有意な差は認めなかったが,正常姿勢では他の条件に比較して重心下降は小さい傾向にあり,円背姿勢がスリップに伴う急激な重心下降を制御できなかった可能性が考えられた.今回の被験者ではスリップ後に実際の転倒を引き起こした者はいなかったことから,COP-COM間距離を大きく離せることは姿勢回復能力(フィードバック制御能)が高いと解釈できる.従って,円背姿勢時のCOP-COM間距離の減少はスリップ後の姿勢回復反応を大きく発揮できないことが示唆された.【理学療法学研究としての意義】本研究は不良姿勢患者への転倒予防指導の観点から姿勢アライメントを改善させる重要性やバランス損失時の杖の重要性を示す一助になると考えられる.