抄録
本報告は、近代初頭の堺における軒庇の伐縮がどのように展開したのか、近世堺における都市構造との関わりから考察するものである。近世において、多くの都市では道路敷地上へ家屋からの軒の張り出しが許されていたが、本来は道路敷地上である軒下が、住民の手によって囲い込まれることが慣習的になり、軒下が私有地同然に扱われるようになったことによって街路が狭隘化した。 堺においては、1872(明治5)年に軒先へ差出す板庇の取払いが命じられ、1874(明治7)年には、堺県から大道筋の軒下の取込みを禁じる布達が出され、大道筋の軒庇の伐縮が行われ、その後1877(明治10)年にかけて軒庇の伐縮は堺市街全般で行われた。大坂夏の陣終結後、徳川幕府によって新たに町割が行われた堺の市街地における道幅は、南北道路は大道の4間半を中心にその左右(東西)に2間と3間の道路が交互に配置され、東西道路は大小路が5間で、それ以外の道路は3間というのが基本であった。そしてその中でも3間幅以上の南北道路が都市軸としての機能を持っていた。道幅については『堺手鑑』などから、近世初期の段階から軒下部分が道幅の内に含まれていたことがわかる。また自治組織としての町は170から180程あり、町の範囲は東西が3間幅以上の南北道路を中心にそれぞれの両側の裏筋まで、南北が東西道路の間という両側町が基本であった。軒庇の伐縮については、1876(明治9)年に大道の軒庇伐縮道路修繕が完成し、それ以降、他の道路についても本格的に進められ、結果として大道を含めて39ヶ所に軒庇の伐縮が命じられた。南北道路では都市軸の主軸といえる3間幅以上の中浜通、山口通、大浜通などに命じられ、東西道路ではほぼ全域に命じられている。また『和泉国大鳥郡第一大区四小区関係文書』からは、軒庇の伐縮が近世における自治組織としての町が基礎的単位となって行われたことがわかる。