2021 年 69 巻 3 号 p. 1019-1026
仏教の見方では,「我」は永遠不滅の実体ではなく自分の心身を「私」とか「私がいる」などと執着することから生じる誤解にすぎない.それゆえ,仏教では無我という.
無我は,執着も無明も全て滅した最後の第四の悟り・阿羅漢果で完全に証得される.
しかし,悟りに四段階があるように,無我の証得にも段階があるのではないだろうか.三通りに言い換えられる無我の定型句「これは私のものではない.これは私ではない.これは私の我ではない」が,無我の段階を示すと予想し,検討する.
「私のもの」という執着は,悟りの第三段階・不還果で滅し,「私」という執着は,最後の完全なる悟り・阿羅漢果で滅する.
では,最後の「これは私の我ではない」は何を意味するのだろうか.筆者は,「悟りもまた我ではない」と了知した解脱智見・滅尽智という正見を意味すると考える.「諸行無常」,「一切行苦」に対して「諸法無我」といわれるのは,有為法のみならず無為法たる解脱・滅を含めた「すべての法が我ではない」のである.