抄録
本稿は,戦前の成城小学校で初めて映画を用いた教育を実践した訓導(教諭),関猛を対象とし,関猛が教育雑誌に残した言説・実践記録を網羅的に検討することで,これまで限定的にしか語られることのなかった戦前の映画と教育をめぐる関係を,改めて考察するものである。本稿では,特に1925年から1933年までに着目する。それは,日本の映像メディアと学校教育との関係についての再帰的言説が醸成される契機となる1932年の「動く掛図論争」以前の実践であること,つまり,その後,戦中・戦後を経て現在に至るまで慣用とされる映画と教育の関係枠組みにおける二元論的構図(映画による教育/映画についての教育)とは別の,教育における映画利用の可能的様態を示唆する重要な期間であることによる。関の映画教育は,作品鑑賞としての映画利用や,各教科の教鞭補助具としての映画利用のみを行なったのではなく,制作・編集・上映・討議等の一連の「行為」としての映画活動を,教育として活用したものであった。それは,映画というメディアによる新しい教育の実践であった。