本稿の目的は,峰地光重における郷土教育論の特質について,「生産と教育」論争や農村教師の社会認識の比較を通して明らかにすることである。具体的には,教育の目的論,学校と地域の関わりに着目して,昭和戦前期農村郷土教育実践における峰地の位置づけを検討した。峰地は池袋児童の村小学校において生活を重視した児童中心主義的教育の意義を見いだすが,その後郷里に帰って赴任した上灘小学校では農村の現実に即した教育をする課題に直面した。大正自由教育の実践を発展させた峰地は,すべての人間が自然から与えられた能力を十分に開花させるという教育の個人的目的に力点を置いていた。一方,「生産と教育」論争に見られるように当時の農村教師たちの多くは,1930年代日本農村の逼迫した「経済生活」から出発しながら,国家・社会の形成者を育成するという教育の社会的目的に力点を置いた郷土教育を志向していた。そうした中で,峰地は郷土教育によって社会的目的と個人的目的をつなごうと実践に取り組んだ。
大正から昭和に時代が移り,大正自由教育から郷土教育へと教育運動が変化したことは,教育目的の主軸が個人的目的から社会的目的へ転換したことでもあった。社会的目的重視の教育界へ変容しつつあった昭和戦前期において,個人的目的を軸にしながら社会的目的と結びつけていこうとした峰地の実践は,大正自由教育の系譜を引く郷土教育の1つの特質と考える。