中国・内モンゴル自治区では、中央政府による生態移民政策が実施され、放牧地から移住した牧民は、移民村での生活を強いられている。牧民は、環境保護と生活向上を図った同政策に期待し、よりよい生活の可能性を信じていた。しかし、彼らを待ち受けていた現実は、より一層の経済的困窮とコミュニティの崩壊であった。筆者が生まれ育ち、今なお家族が住む村でも同政策が実施され、移民村に移住させられた牧民は悲惨な生活を送っている。その惨状を何とか打破しようと、筆者は数名の若者とともに地域の活性化運動に立ち上がった。この運動によって、自らの地域を能動的に改善していこうとする姿勢が住民の中に芽生えつつあった矢先、今度は、再度の移民という予期せぬ苦難が住民を襲った。
本論文は、地域コミュニティの再建に向かって、筆者が B 移民村住民とともに展開した運動の 2005-2007 年の経緯を報告した論文(蘇米雅,2011)の続編であり、2008 年―2011 年の経緯を報告する。B 移民村には、2002 年に実施された生態移民政策によって、元バインオーラ村から移住してきた人々が住んでいた。しかし、6 年後(2008 年)、彼らは再び移住を強いられた。B 移民村の場所は、シャンド鎮の都市計画によって、移民後数年の間に、正藍旗人民政府所在都市の都心部となってしまった。そのため、家畜の飼育には不適切という理由で、2008年 10 月、政府は住民に移住を命じた。この第 2 回移民では、住民は移転先を個々人で選択することとされた。それは、移民村でのコミュニティが解体されることを意味していた。それに対して、住民と筆者は、コミュニティの崩壊を食い止めるべく、地域自治組織を結成し、ウブルジェ(第 1 回移民まで放牧地)の自主管理運動を展開した。この運動によって、隣接村や行政をも巻き込んだ新しい地域共同管理体制が誕生した。
本論文の最後では、規範理論の観点から、「ウブルジェ」(遊牧時代の冬の営地)という死語となりつつあった言葉が、コミュニティ再生の規範を象徴する言葉として、規範伝達の強力な媒体となったことを考察した。