故人を人工知能(AI)やヒト型ロボット(アンドロイド)技術で蘇らせようという試みが止まらない。古くはバッハ風の曲を自動作曲した1980年代のプログラム「エミー」から、レンブラント、手塚治虫、ビートルズのAI、更にアンドロイドや3D映像で蘇った夏目漱石、美空ひばりまで。こうした故人の再生は、あるいは仏壇や遺影の姿を変え、あるいはスター達やカリスマ的な経営者・指導者の「バーチャル延命」など、単なるビジネスチャンスを超えて、我々の生活や死生観をも変えて行く潜在力を有している。
法的には、こうした「故人の再生」はそのタイプによって肖像権、パブリシティ権、著作権などの処理を必要とする。現在の法ルールや通説に従えば、ある程度までの再生は権利処理不要でおこなえると解釈できそうだが、現実には少なくとも遺族の同意のもとに進められるケースが大半だろう。
しかし、例えばAI美空ひばりが「冒涜だ」といった批判を招くなど、(遺族の了承の有無に関わらず)人々は故人の再生に、倫理的・感情的な違和感を抱くことも少なくない。それは通常のアンドロイドでも見られる「不気味の谷」の問題を超えて(あるいは根本において同じ原因を抱えつつ)、恐らく「死者をよみがえらせる」という行為そのものの突きつける重大な問いかけであろう。
では、故人の再生はどのような準則に従って行われるべきか。世界的なAI・ロボット開発をめぐる議論の中で取り上げられることは少ないが、もうその議論を始めるべき時が来ているように思われる。