2026 年 40 巻 1 号 p. 11-23
従来の感染症病因論は,単一の病原体が単一の疾患を引き起こすというコッホの原則に基づいていた.しかし,齲蝕をはじめとするバイオフィルム感染症は多数の微生物の相互作用によって成立し,コッホの原則だけでは十分な説明ができない.その特性を体系的に説明する新たな枠組みとして,キーストーン病原体仮説が提唱されている.この病因論は,微生物叢の構造改変を主導する特定の病原体の存在に着目し,齲蝕や歯周病など複雑なバイオフィルム感染症の理解に適している.本稿では,ミュータンスレンサ球菌が酸産生,グルカン合成,クォラムセンシングを駆使して他の菌種を巻き込み,口腔微生物叢全体を病的環境へと改変する過程を,キーストーン病原体仮説の視点から概説する.近年の研究は,Veillonella parvulaが乳酸代謝を介してStreptococcus mutansの酸応答系を強化し,酸耐性や酸産生能を増大させることを示しており,これまで共生的と考えられてきた菌が dysbiosis下で病原化する pathobiontとして作用し得ることを明らかにした.このようなクロススピーシーズ相互作用による病原性の変化は,齲蝕発症におけるキーストーン病原体仮説の臨床的意義を一層裏付ける.さらに,S. mutansが有するコラーゲン結合アドヘシンCnmタンパク質は,象牙質への付着と根面齲蝕の進展に加えて,血管内皮細胞への結合を介し,感染性心内膜炎や脳血管障害,腎症などの全身疾患との関連性が報告されている.これは齲蝕を超えた重要な帰結であり,キーストーン病原体仮説の臨床的意義を口腔から全身へ拡張する視座を提示するものである.