2017 年 29 巻 1 号 p. 29-41
近代の山鉾巡行は、明治維新後、寄町制度が廃止になり山鉾巡行を支える経済的基盤が崩壊した。この危機に対し、土田作兵衛は、清々講社なる祭礼組織を構築した。その構想は、氏子から公平に賦課しそれを山鉾町に公平に分配することであった。また、山鉾町には、「例年懈怠なく山鉾を出すへき」と全山鉾が巡行することを目指し、見物人の期待に答えようとした土田の功績によるものが大きいことが明らかになった。すなわち、観光や経済に及ぼすことを理解していた。一方、1923 年山鉾町とのパイプ役となり、京都市から補助を受ける。また、関係者は集客に努め山鉾巡行の観光的価値を高めたといえる。