全日本鍼灸学会雑誌
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総説
16-18世紀のヨーロッパへ伝わった日本の鍼灸
ミヒェル ヴォルフガング
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2011 年 61 巻 2 号 p. 150-163

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抄録

 現代では東洋医学と西洋医学を対立するものと見る研究者は少なくないが、 近世に遡ると、 互いに理解しにくいものに対する拒絶反応はあるものの、 有用と判断された医薬品や治療法は選択的に受容されていた。
 16世紀中頃から東アジアに進出した西洋勢力に対し、 中国と朝鮮が反発の姿勢を見せる一方で、 日本はいわゆる 「鎖国政策」 以降も一定の交流を保ち続けた。 19世紀初頭まで 「東洋医学」 に関する情報の大半は中国からではなく、 長崎のオランダ商館を通じて西洋に伝わり、 中国の伝統医学のほか、 管鍼法、 打鍼法など日本独特のものも日中共有の治療法として紹介された。
 鍼術と灸術の観察と受容は基本的に別々に進められた。 「火のボタン」 として16世紀に紹介された灸は、 1675年に刊行されたバタビアの牧師の著書により足痛風の治療薬Moxaとして注目され、 日本での研究成果も踏まえつつ、 西洋の医学界において本格的に議論されるようになった。 ケンペルが持ち帰った 「灸所鑑」 とその詳細な説明でさらに関心が高まり、 古代ギリシャやエジプトにも類似の治療法があったことから、 医術としての灸は比較的好意的に受容された。
 灸術と同様に鍼術に関する最古の記述は日葡交流時代に遡るが、 ヨーロッパでの専門家による議論は、 出島商館医テン・ライネ博士が1682年に発表した論文集から始まる。 テン・ライネは鍼術を 「acupunctura」 と名づけ、 出島の阿蘭陀通詞に説明を受けた資料を紹介したが、 「気」、 「経絡」、 「陰陽」 などの理解に至らず読者を困惑させた。 その後商館医ケンペルが疝気を 「疝痛」 (colica) と見なし、 その治療法を詳細に記したが、 西洋の医学界で 「日本人と中国人は、 胃腸に溜ったガスを抜くために腹部に針を刺す」 という誤った解釈が広まり、 18世紀末までは来日した医師達も西洋の読者も、 鍼術に対する疑問を払拭できず、 有用性を認めることに極めて消極的だった。

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