抄録
現代スポーツは、科学技術の発展によって競技スポーツを高度化してきた。それは、他方で文化としてのスポーツ、特にその文化体系における物質文化である用具や道具を装置化してきた歴史であると同時に、操作する人間に対する身体的なリスクをも生み出してきた。
スポーツと科学技術との関係は、プレモダンにおける科学と技術を分離させる反科学的イデオロギーが支配する観念文化中心の時代から、モダンにおける科学と技術を一体化させようとする科学的イデオロギーが支配する物質文化中心の時代へと推移してきた。しかし、この科学技術によるスポーツ・テクノロジーの発展は、アスリートの肉体改造やスポーツ環境の破壊などといったリスクを生じさせている。このリスクは、ベック(Beck, U.)やギデンズ(Giddens, A.)等が提唱するモダンにおける再帰性(再帰的近代化)に基づくそれと同様な現象と考えられる。現代スポーツにおけるスポーツ・テクノロジーは、このリスク社会と同様の課題を抱えているのである。
スポーツがこの課題を解決する1 つの考え方としては、リスクに向き合う身体をそこからどのように解放するのかを追究する「身体的解放」の論理と、それに基づく「人間的臨界点」を考察することがあげられる。本稿では、日本スポーツ協会(JSPO)と日本オリンピック委員会(JOC)による「スポーツ宣言日本」に着目した。そこでは、スポーツにおける身体経験を通じて、自然環境の問題を自らの肉体に対するリスクとして受け止める身体性を洗練し、それがメディアとして自然と文明とのwell-being な融和や折り合いをつけることに「人間的臨界点」を見出そうとする。また、〈聖―俗―遊〉の視点から科学技術とスポーツとの関係をとらえると、「遊」の世界におけるスポーツの楽しさが「聖」の世界にふれることによって再解釈され、「俗」の世界で機能する先端科学技術のリスクを制御する可能性も見出すことができる。
このように、科学と技術の「分離」や「一体化」という二極化現象によって生み出される科学的イデオロギーがスポーツとリスクとの関係を考える根本的な研究対象になるのであれば、スポーツとリスクをめぐる社会現象をスポーツ社会学から多元的に考察することは、リスク社会一般への応用という点でもその研究的意義は大きいと思われる。