スポーツ社会学研究
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31 巻, 2 号
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特集
  • 中江 桂子
    2023 年 31 巻 2 号 p. 3-5
    発行日: 2023年
    公開日: 2024/10/30
    ジャーナル フリー
  • ―その人間的臨界点を求めて―
    菊 幸一
    2023 年 31 巻 2 号 p. 7-19
    発行日: 2023年
    公開日: 2024/10/30
    ジャーナル フリー
     現代スポーツは、科学技術の発展によって競技スポーツを高度化してきた。それは、他方で文化としてのスポーツ、特にその文化体系における物質文化である用具や道具を装置化してきた歴史であると同時に、操作する人間に対する身体的なリスクをも生み出してきた。
     スポーツと科学技術との関係は、プレモダンにおける科学と技術を分離させる反科学的イデオロギーが支配する観念文化中心の時代から、モダンにおける科学と技術を一体化させようとする科学的イデオロギーが支配する物質文化中心の時代へと推移してきた。しかし、この科学技術によるスポーツ・テクノロジーの発展は、アスリートの肉体改造やスポーツ環境の破壊などといったリスクを生じさせている。このリスクは、ベック(Beck, U.)やギデンズ(Giddens, A.)等が提唱するモダンにおける再帰性(再帰的近代化)に基づくそれと同様な現象と考えられる。現代スポーツにおけるスポーツ・テクノロジーは、このリスク社会と同様の課題を抱えているのである。
     スポーツがこの課題を解決する1 つの考え方としては、リスクに向き合う身体をそこからどのように解放するのかを追究する「身体的解放」の論理と、それに基づく「人間的臨界点」を考察することがあげられる。本稿では、日本スポーツ協会(JSPO)と日本オリンピック委員会(JOC)による「スポーツ宣言日本」に着目した。そこでは、スポーツにおける身体経験を通じて、自然環境の問題を自らの肉体に対するリスクとして受け止める身体性を洗練し、それがメディアとして自然と文明とのwell-being な融和や折り合いをつけることに「人間的臨界点」を見出そうとする。また、〈聖―俗―遊〉の視点から科学技術とスポーツとの関係をとらえると、「遊」の世界におけるスポーツの楽しさが「聖」の世界にふれることによって再解釈され、「俗」の世界で機能する先端科学技術のリスクを制御する可能性も見出すことができる。
     このように、科学と技術の「分離」や「一体化」という二極化現象によって生み出される科学的イデオロギーがスポーツとリスクとの関係を考える根本的な研究対象になるのであれば、スポーツとリスクをめぐる社会現象をスポーツ社会学から多元的に考察することは、リスク社会一般への応用という点でもその研究的意義は大きいと思われる。
  • ―リスクトレードオフの観点から―
    小松 丈晃
    2023 年 31 巻 2 号 p. 21-34
    発行日: 2023年
    公開日: 2024/10/30
    ジャーナル フリー
     本稿では、ルーマンの社会システム論の立場からスポーツ論を展開しているR. シュティッヒヴェーに依拠して、スポーツという社会領域を、二重の焦点をもつ楕円として捉えた上で、スポーツとリスクとの複雑な関わり合いを、リスクトレードオフならびにリスクの選択(あるいは非選択)という視角から、考える。スポーツをめぐるリスクトレードオフとしては、スポーツと資本主義との強い結びつきゆえに、二つの焦点のうち「公衆」の側に重点がおかれることで、それが「競技」の側でのネガティブリスクを招きやすい、という傾向をさしあたり確認はできるかもしれないが、リスクの「選択」を、リスク管理や評価にとって難問の一つとして捉える立場からすると、そもそもリスクトレードオフが、一つの「問題」として成立する前提として、リスクの選択あるいは非選択を条件づけるさまざまな要因がある点に、留意すべきである。本稿では、何らかの具体的な事例の分析というよりも、スポーツとリスクとの複雑な関係について社会学的に考えるための一つの理論的な視点について、検討してみたい。
  • ―ラグビーにおける代替治療というサブカルチャーと脳障害に対しての リスク管理の見識の推移―
    海老島 均, マルコム ドミニック
    2023 年 31 巻 2 号 p. 35-48
    発行日: 2023年
    公開日: 2024/10/30
    ジャーナル フリー
     本論文は、日本におけるラグビーフットボール競技において、脳しんとうがいかに扱われてきたか、競技中にその症状または疑いのある選手の扱い(手当)および脳しんとうという症状(問題)を現場の選手、指導者または協会関係者がいかに認識してきたかについて、日本のラグビー専門誌である『ラグビーマガジン』の記事の中から、この問題に関係する記事を抽出し分析した。その結果、日本ラグビーフットボール協会(JRFU)が昭和28年に協会内で医学委員会を設け、競技に特有の頭部または頸部に関係する重大事故対策に本格的に取り組んでいった経緯が明らかになった。当初、この委員会メンバーにこの競技を経験した医師を中心に対策に取り組んだことと、ラグビー特有の「魔法のヤカン」を用いた脳しんとうを起こしたプレーヤーに対する代替治療というサブカルチャーが微妙な関係の中で共存してきたことがわかった。しかし、脳しんとうの症状および後遺症に関する科学的知見が明らかになるにしたがって、またスポーツの世界に医科学の適用が浸透すると共に、「魔法のヤカン」は消滅していった。この「魔法のヤカン」が消滅する過程からみえてくるのが、ラグビーの競技運営に関わる人々の競技の安全性にむけての取り組み(国際的ルール変更、また国内の独自ルール設定および競技環境改善)である。この取り組みが功を奏している反面、新たな危険性(選手の大型化やプレースピードの増加、ゲームの質の変化による選手の身体への負担、ジャージや防具の変化による接触プレーの激化)がそうした取り組みを相殺していることが、この競技の今後の運営また将来的発展にむけて危惧されている。こうした課題を解決するために、「生命工学的解決」「ゲームの進め方による解決」「文化的変容」という観点からの解決策を議論した。解決に向けては、競技を取り巻くミクロ社会の中だけではなく、より広範囲なマクロ社会の網の中で解決策を探らなければならない。
  • ―自己決定と責任の分散―
    井上 洋一
    2023 年 31 巻 2 号 p. 49-57
    発行日: 2023年
    公開日: 2024/10/30
    ジャーナル フリー
     スポーツは社会にとって有用であると国家法でもその推進が謳われる一方で、最も尊重すべき身体・生命への重大な危険も内包する活動でもある。この課題に私たちはいまどのように向き合ってゆくべきなのであろうか。本稿は、このリスクとスポーツについて、主としてスポーツ法学の立場から現状や社会の動向そして安全への意識の変化などをふまえ、検討してきた。その結果以下のことが言える。
    1) スポーツ活動については、身体・生命に対する侵害の可能性があるとしても、そのことを容認して、その価値を享受することを望もうとするかどうかは、個々人の自己決定権の行使の範囲にあり、自己責任を原則とすることが前提となる。
    2) 法的な判断からも、近年は被害者の救済を重視し、責任を加害者、管理者等にも問うとする要請が増し、危険引き受けの法理にも変化が生じている。
    3) 医科学的な領域からの新しい知見も発信され、問題提起がなされるなど社会全般からの安全に対する要請も高くなっている。
    4) 人々の意識も変化するなかで、「市民法秩序の許容」の観点が重要である。
    5) スポーツ法学が目指すところは、公平・公正とまさに安全をもとにしたスポーツ環境の構築である。したがって、事前、過程、事後の具体的なリスクマネジメントによって、責任を分散しつつ対策を進めてゆくことによりリスクを削減し、活動を守ることが重要である。
    6) 新たなアイデアや工夫によってリスクを軽減できることは多いので、そのスポーツの本質を逸脱しない施設やルールの改善は大いに検討すべきである。
    7) スポーツ活動の意義とそのリスクの軽減とのバランスを図ること、すなわち自己決定権の尊重と責任の分散により、今後のスポーツは社会に認められ、続いてゆくだろう。
原著論文
  • —運動部活動経験が体育教師志望に与える影響の分析から—
    三上 純
    原稿種別: 研究論文
    2023 年 31 巻 2 号 p. 59-75
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/10/26
    [早期公開] 公開日: 2023/06/23
    ジャーナル フリー

     本稿の目的は、固定的なジェンダー観の形成に寄与する運動部活動文化に着目し、それが体育教師志望といかに結びついているのかを、統計分析によって明らかにすることである。先行研究の概観から以下の3つの仮説を設定し、その検証を分析課題とする。①体育教師志望に与える様々な運動部活動経験の影響は、運動部顧問志望に媒介されて生じる。②運動部活動を通じた男性体育教師との結びつきが、体育教師志望に影響する。③運動部活動における性に関わる指導者の言動や仲間同士のコミュニケーションが、体育教師志望に影響する。
     本稿では、日本の中学校・高校に通っていた大学生・大学院生を対象に、2021年2~3月(以下、1期調査とする)および同年4~7月(以下、2期調査とする)に実施したオンラインのアンケート調査によって得られたデータを使用する。1期調査では、筆者の知人や大学に勤務する教員を通じてEメールまたはLINEで、約1600人に回答リンクを配布し397人から回答を得た。2期調査では、大学に勤務する教員が受け持つ授業を通じて約3000人に回答リンクを配布し、755人から回答を得た。本稿では2つのデータを統合して使用する。
     体育教師志望を従属変数とするロジスティック回帰分析と、運動部顧問志望を媒介変数とするKHB法による媒介分析の結果、仮説①および仮説②は支持されたものの、仮説③は支持されなかった。しかし、体育教師志望を強く規定する運動部顧問志望を従属変数として多項ロジスティック回帰分析を行った結果、運動部活動における性に関わる指導者の言動や仲間同士のコミュニケーションは運動部顧問志望の規定要因となることが示された。このことから、固定的なジェンダー観の形成に寄与する運動部活動での指導者や仲間との関係性が、運動部顧問志望を経由して体育教師のジェンダー観に影響すると考えられた。

  • —Bリーグ試合運営のフィールドワークから—
    木村 宏人
    2023 年 31 巻 2 号 p. 77-91
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/10/26
    ジャーナル フリー
     多くのプロ・スポーツクラブは試合開催時にボランティアの協力を得ている。クラブのボランティアは自発的な市民として位置づけられ、かつては商業的なシステムの変革につながる市民クラブの設立主体として、期待的に論じられたこともあった。しかし現在多くのボランティアは経営に参画することがないまま試合運営を補助する役割を担っている。プロ・スポーツクラブのボランティア活動を市民が担うことの社会的意味を改めて考える必要があるだろう。
     本稿はR. D. Putnamの社会関係資本論を手がかりに、市民的な公共性の観点からプロ・スポーツクラブのボランティア活動を考える。Putnamの社会関係資本論によれば、様々な社会的亀裂を包含する橋渡し型のネットワークにおいてこそ、円滑な民主主義の運営に必要な、他者との協力を可能にする公共的態度が涵養されるという。本稿の目的は、プロ・スポーツクラブの試合運営を補助するボランティア空間がどのようなものなのかを具体的に記述すること、およびそのボランティア空間が見知らぬ他者と出会う場となり、公共的態度を生み出す機能を持ちうるのかを明らかにすることである。
     プロ・バスケットボールクラブのボランティア空間のフィールドワークを行った結果、ボランティア空間は、普段の生活では接点のない人々が出会う空間となっていたことがわかった。ボランティア空間はクラブのファンとファンではない人を包含しており、両者の葛藤や協力を通じて公共的態度を醸成する機能を持ちうることが明らかになった。つまり、両者の混在によって生じる情報の伝播によってボランティア実践に変化がもたらされるとともに、Putnamが公共的態度として重視する一般的互酬性規範と一般的信頼が醸成されていた。最後に、プロ・スポーツクラブのボランティア空間が持つ、その公共的態度を生み出す制度的基盤について議論した。
  • —ある日本プロ野球選手のBlack Lives Matter運動に関するソーシャルメディア投稿を事例に—
    有賀 ゆうアニース
    2023 年 31 巻 2 号 p. 93-106
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/10/26
    ジャーナル フリー
     近年、ソーシャルメディアの普及を背景として、人種的マイノリティのアスリートによるレイシズムへの抗議が様々な競技で顕在化している。先行研究では、アスリートたちがアスリートとしての立場とアクティビストとしての立場の間でのジレンマに、またときには大規模なバックラッシュやファンとの葛藤に直面することが報告されてきた。本稿では、こうした状況のなかで例外的に反レイシズムに訴えつつ好意的な支持を広く集めたとされる、あるアフリカ系のプロ野球選手のBlack Lives Matter運動に関するTwitterの投稿を事例として取り上げる。人種的マイノリティとしての背景を持つプロアスリートがこうした困難な状況にいかに関与しているのかを分析する。テクスト上の表現を通じて人種や人種主義をめぐるアイデンティティや行為がいかに産出されるのかという視座からその投稿とそれに対するリプライを分析し、以下の知見を得た。彼は人種差別として理解されうる経験を物語りつつ、それが誰かへの非難として受け止められないように自らの物語を慎重にデザインすることで、レイシズムへの抗議とファン、ユーザーとの協調的関係の維持という困難な2つの課題を同時に追求していた。そしてその投稿に対するリプライも、一方では反差別の観点からアスリートへの共感や同調、他方ではスポーツの観点からアスリートへの賛美・応援にそれぞれ分岐することで、アスリートとオーディエンスたちの間で複合的な同調的関係が現出していた。以上の知見は、日本のスポーツ界において人種的マイノリティとしての背景をもつアスリートがいかなる課題に直面し、それを達成しようとしているのかを明らかにしている点で、スポーツ社会学研究へ貢献する。
  • 小石川 聖
    2023 年 31 巻 2 号 p. 107-121
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/10/26
    ジャーナル フリー
     2018年のサッカーワールドカップで、VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)が導入され話題となった。一方で、日本ではインスタント・リプレイを見ること自体はスポーツ中継には当たり前の光景になっているばかりか、1969年の大相撲では既にビデオ判定が導入された。本稿では、ビデオ判定導入に至る過程がメディア経験の変化でもあったことに着目し、メディア論を用いて「リプレイ」にアプローチする。
     スポーツ中継の歴史の中で1964年の東京オリンピックは、「テレビ・オリンピック」と称され、放送技術の革新が喧伝された大会であり、スローモーションVTRもそのひとつであったことがこれまで明らかにされている。しかし、VTR導入以前には、リプレイは写真や映画フィルムによって可能になっていた。本研究の目的は、そうしたリプレイ技術の開発・導入の過程を具体的に明らかにすることである。
     理論的には、メディア論における技術の社会的構成という立場から分析を行う。この理論は、技術の開発・導入に直接携わる科学者や技術者だけでなく、一見すると無関係に見える人びとに注目する。放送技術の社会的構成を問う本研究の場合は、テレビの演出に関わる制作陣やアナウンサー、解説者といった人びとを対象とする。技術の開発・導入状況と、そうした人びとのリプレイへの解釈を明らかにするために、当時の放送技術や放送文化の専門誌を資料として分析を行う。
     結論として、VTRの導入はそれ以前の技術の混在した状況をまとめあげる転機となったが、リプレイへの期待はVTR導入以前から存在していた。リプレイは、スポーツ中継の新しい演出として模索され、スポーツの専門性への視聴者の要求に応えることができる技術として期待されたのである。一方で、VTRは「機械の眼」の威力を人びとに実感させた技術でもあり、東京オリンピック後には大相撲のビデオ判定につながっていったのである。
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