本稿は,本来は「コミュニケーション」の問題として眺め,解こうとするべきではない事柄を「コミュニケーション」の問題と捉え,さらには,あたかもそれが科学技術社会論(STS)の本来の流儀であると錯覚してしまってはいないか,という自己言及的な問いを,原子力分野の事例分析の紹介を通して投げかけるものである.2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故後の放射性物質拡散シミュレーションシステム“SPEEDI”をめぐる論争は,技術と政策,社会の間の相互作用に立ち入った省察と学習を経ることなく,「SPEEDIがあるから大丈夫」という事故前の空論から「SPEEDIは使い物にならないから一切使わない」という暴論への反転に帰結した.華やかに見える論争の中で見落とされがちな,しかし真に公益を守るためには見落としてはならない機微を示し,誰がそれについて最も知悉しているのか,それをどのように活かすことが適切なのか,批判性を保ちつつ示していくことこそがSTSには改めて求められている.