抄録
生物を比較する場合、種の系統関係は最も基本となる情報であり、進化の過程で各生物が獲得した特徴は、どのような道筋を通ってきたのか理解するためにも非常に重要である。テナガザル類は我々ヒトを含む類人猿のなかで最も早い時期に分岐した一群であり、近年、その不明確な属間の系統関係を明らかにしようとする研究が次々と報告された。テナガザル類は現在4属に分類されているが、系統関係は不確定であり、研究グループあるいは解析法によって、様々な研究結果が発表されている。一方で、テナガザル類の染色体は哺乳類の中で最も多くの相互転座が固定されており、また繁殖群が一夫一妻性の家族単位の小集団構成であることなど、系統関係の複雑さに関連した様々な遺伝・生態学的特徴が知られている。
我々は今回、新たにHoolock属のテナガザルのミトコンドリアゲノム全塩基配列を決定し、決定済みの2種とこれまでにデータベースに報告されたデータとあわせて、ミトコンドリアDNA全塩基配列を用いて、テナガザルの4属間(Hoolock, Hylobates, Nomascus, Symphalangus)の系統関係を、近隣結合法、最尤法、ベイズ法など異なる方法で解析した。あるモデルからはHoolock属が最初に分岐した系統関係を最も可能性のある系統樹として得たが、別のモデルでは支持されず、Nomascus属が最初に分岐した可能性を示すなど、未だに不明確な状況にある。ミトコンドリアゲノムには、13のタンパク質、2つのrRNA、22のtRNAをコードする領域があるが、領域ごとに行った解析からも統一的な系統関係を得ていない。また、分岐年代推定の解析からは、およそ900万年前から700万年前までの極めて短い期間に属レベルの放射的な種分化が起こったことが推定された。このことが分子系統を不明確にする1つの要因と考えられる。
これらの解析結果を総合し、生息地域である東南アジアの半島・島々で、テナガザルの祖先が分布を広げながら種分化していった様相を、古代の大陸の知見とあわせ、現在の分布ならびに種分化・属分化が「いつ」「どのように」おこったのか、生物地理学的に考察する。