抄録
ヒトの最も特徴的な行動の一つに,道具の製作と使用がある,この能力は初期人類の段階から見られ,彼らの行動や生存に大きな影響を与えるとともに,手の形態・構造の進化過程にも影響を及ぼした。しかし,道具を使用するのはヒトに限らず,他の霊長類においても道具使用が確認されている。特にチンパンジーにおいては文化的多様性が存在し,多くの個体が枝を用いてアリやハチミツを採取するなどの行動を示す。その中でも,ニシチンパンジーは唯一,石を道具として用い,木の殻を割って中の実を食べる行動が観察されている。本研究では,このようなチンパンジー間に見られる道具使用文化の違いによって異なる選択圧が生じ,手の形態,特に物体把握に重要である末節骨に影響を与えているかどうかを検証することを目的とした。具体的には,遺伝的・地理的に隔たるニシチンパンジーとヒガシチンパンジーの手指末節骨形態を,7項目の直線計測に基づく主成分分析を通じて比較した。その結果、石を道具として使用するニシチンパンジーは、石を用いないヒガシチンパンジーに比べて,母指および示指の末節骨粗面の幅が相対的に有意に広いことが示された。末節骨粗面が広いことは物体把握の際に指と物体との接触面積が増し,より安定した把持が可能になる。このため木の実を主なエネルギー源とする必要のある環境下で,ニシチンパンジーにおいて石を安定して保持・操作しやすい形態が選択された結果と考えられる。母指および示指の末節骨粗面が広いことは,従来,精密把持と関連づけられて議論されてきたが,本研究の結果は、強い力を要する握力把持機能とも強く関係することを示唆している。道具使用文化が形態進化に与える影響を明らかにした本研究は,ヒトの手の進化的起源を理解するうえでも重要な知見を提供すると考えられる。