福音書のイエスはしばしば病人と接触しており、その中には当時のユダヤ社会において「穢れ」とされたツァラアト/レプラの人も含まれていた。本稿では、彼らとの接触を切り口に、イエスが「穢れ」と「聖性」についてどのような態度をとったのかを考察する。
ヘブライ語聖書において、「聖性」は神の属性であり、それゆえユダヤ人は「聖なる民族」として「穢れ」を避け、「浄い」状態で生きることが求められた。ツァラアトの人は「穢れたもの」の象徴とされ、その病は神罰と解されていた。イエスは「穢れ」の問題を無視してツァラアト/レプラの人と接触した。イエスにとって神は「いのちを生かすはたらき」なのであり、律法規定が「いのちを殺すこと」になるならば、「穢れ」も「聖性」も無視すべき観念なのである。