抄録
本稿では、七代目(五代目)立川談志の落語について考察する。立川談志は「落語が『能』と同じ道をたどりそうなのは、たしかである」と著書『現代落語論』で警鐘を鳴らし、その高座において、古典落語と現代の聴き手の乖離を埋めようとする取り組みを行ったと考えられる。そのうちのいくつかが、率直かつ毒舌的なマクラや、地での積極的な語りかけ、メタ発話である。語り手である談志自身が「消える」ことなく、有人格の「立川談志」として落語の中で顕在化し続ける。落語の本題の物語世界の面白さ、演じる技術の巧みさのみならず、このようなパフォーマンス全体により明示的に伝わる、立川談志の個性にファンは「心酔」する。このような落語の演じ方や聴き方は、三代目桂米朝の指摘する「演者が消滅してしまうという演法」をベースとしつつも、その演じ方、聴き方とは異なる部分があるだろう。