江戸時代の数学、和算における「点竄」は筆算、ないし西洋の代数学だと評価されてきた。その成立には「演段」という数学用語がとりあげられ、さらに 2 つの用語は「傍書法」と呼ばれる数式の表記方法との関係が示唆されてきた。本稿は和算家による用例に基づき、「点竄」の成立を再検討するものである。
関孝和や弟子の建部賢弘は「演段」を「解説」として理解していた。その後の和算家は、「演段」をある種の術として理解するようになる。ただし「演段」と「傍書法」との関係性は見出せない。一方「点竄」については、「傍書法」との関係を強調した松永良弼の解釈と、方程式の計算と結びつけた入江修敬の解釈が存在していた。両者の解釈は有馬頼徸によって包括され『拾璣算法』に掲載された。同書の出版によって、「点竄」と「傍書法」が一つの知識として普及することになり、それを後の和算家が受容したのである。
本論文では統計論争において森鷗外(林太郎)の議論の核心をなす「醫學統計論題言」、「統計ニ就テ」および「統計ニ就テノ分疏」の内容を、これまで先行研究が注目していなかったフリードリヒ・マルチウスの 1881 年の論文と比較し、統計に関する彼の科学方法論がこの論文に大きく依拠していることを示した。マルチウスの論文は、医学的決定論の立場に立つ実験派と統計データを重視する計数派との対立という当時のヨーロッパ医学界の文脈の中で、実験派の立場から、統計的アプローチの認識に対する権利要求の限界を画する意図をもって執筆されたものであり、マルチウス論文に大きく依拠して執筆された森の統計論は、結局のところ、実験的方法により原因が特定できない場合にのみ統計に補助的な意義を認める、ベルナール流の消極的肯定論として特徴付けることができる。