「この子は私である。あの子も私である。どんなに障害は重くとも、みんな、その福祉を堅く守ってあげなければと、深く心に誓う」
この言葉は、日本で最初の重症心身障害児施設である島田療育園の初代園長小林提樹の言葉である。提樹は1935年(昭和10年)に小児科医となり、この座右の銘のままに生き抜いた。
「生めよ、増やせよ。」
お国のために生きろという戦前戦中の時代の中、障害児を抱えた母親は離縁させられたり、心中したりという悲惨な状態であった。母親は皆、「産んだ責任」を考えながら、生きていかなければならなかった。
戦争が終わり、戦後の混乱の中、人は生きるのに精いっぱいだった。子どもを育てられない人の中には、我が子を捨てるものもいた。「捨て子」の中には、障害児も多かった。
提樹は、その子らを日赤産院に収容していった。
自分たちの食べ物もない、生きるのに必死だった時代…。
「捨て子を育てるとは、どうせ不義の子であるから、不義を助けることになっては、やるべきことではない」
当然、周囲の反対も多かった。
「では、捨て子は見殺しにしますか。生あるものは助けるのが医師の仕事です」
提樹はそう主張し、受け入れを続けた。
そのような中、島田良夫ちゃんのご家族を中心に、
「障害児のための楽園をつくろう」
を合言葉に、島田療育園が1961年(昭和36年)に誕生した。
何もないところから築き上げた島田療育園。誕生するまでも、誕生してからもそれは大変であった。お金がない。職員がいない。そのような中、水上勉が1963年(昭和38年)に中央公論に発表した「拝啓池田総理大臣殿」が社会的反響をよび、少しずつ整備されていったのであった1)。
では、今はどうであろうか。一つ話を紹介する。
「先生、話があるの。」
とある日、A君のお母さんがやってきた。うつむいて憔悴しきった表情であった。
私は診察室にお母さんを案内した。
「なんで私ばっかりこんな不幸な目に合わなきゃなんないのよ!」
バタンとドアが閉まるやいなや、お母さんはそう叫んで泣き崩れた。
それからお母さんはぽつりぽつりと話し出した。
お父さん
が突然、
「なんか、俺、やる気が出ない。変なんだ」
と言いだし、病院に行き、「うつ病」と言われ、納得いかないまま自宅に帰った。けれど、突然夜中にけいれんを起こし、救急車で集中治療室に運ばれたことを。
そして、そのままレスピレーター管理になったことを。
診断はウイルス感染による急性脳症であった。
かけてあげる言葉が私には何も浮かばない。泣き声だけが部屋に響く。そのときであった。ふと見るとA君が笑っていた。私はその笑顔に救われた。
「A君が笑っているね」
その一言だけ私はお母さんに告げた。
「そうね、Aが笑っている。Aに笑われている。私が頑張らなきゃ。」
そう言ってお母さんは涙をふいた。以来お母さんは泣かなかった。涙を見せなかった。
しばらくして
お父さん
は亡くなった。葬式のとき、A君は島田療育センターに緊急一時入所をした。葬儀が終わるとお母さんはすぐにA君を迎えに来た。病棟のスタッフは、
「大変だからまだ預かるわよ」
と言ったが、お母さんは、
「いや、大丈夫です。」
と言って、すぐに連れて帰った。そのやりとりを病棟で聞いていて、私にはお母さんの気持ちがわかる気がした。お母さんにとって、あのときはA君が必要だったのである。
私がその話を伝えたいと外来でお願いしたときに、そのときだけお母さんは泣いた。
「いきなり何を言ってるのよ、先生」
って。それから泣きながら教えてくれた。
「実は私、Aが生まれたとき、一緒に死のうと思ったの。そしたら
お父さん
が、『俺がお前たちを幸せにする。一生守ってやるから、絶対におまえたちを死なせない』って言ってくれた。だから生きていこうと思った。その
お父さん
は死んじゃったけど、まさかAに助けられるとはね。Aは一家の大黒柱よ。」
「産んだ責任」
障害という個性を持った子どもを産んだとき、母親は誰もが考えるという。それは昔も今も変わらない。
「生まれてくれてありがとう」
お母さんが、
お父さん
が、おばあちゃんが、おじいちゃんが、お姉ちゃんが、お兄ちゃんが、おばちゃんが、おじちゃんが、みんな思ってくれる。
そんな時代を築くために、われわれは今、何をしたらいいのだろうか。
このシンポジウムは、すべての子どもたちが、そしてその家族が、明るく楽しく過ごす。そんな社会を作っていくきっかけとなるシンポジウムを目ざしている。
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