資本主義市場経済においては,キャピタルゲインと配当を求める貯蓄は,事業の創造と拡大の為に資金を求めている企業に向けて還流される。このような金融資源の循環において中心的役割を演ずるのが資本市場である。投資家達の決断は公開情報に依存し,そうした公開情報は当該企業の現在ならびに将来の価値を包み隠さず公表していると理論的には考えられている。しかしながら,公表されている財務情報が,企業に関する完全な情報を含んでいるとは限らない。それは,投資家達にとってのリスクを示唆するような情報を意図的に隠蔽しているかもしれない。エンロンが2000年の年次報告で"驚異的な成長の機会"を自慢げに発表したとき,同社が進めていた英国におけるアズリックス事業やインドにおけるダブホール発電所事業が,同社に多大な損失をもたらしていることを同社の幹部達は既に知っていた。2000年2月に発足したエンロンクレディットは財務的に大失敗であった。ブロックバスター社との間で結ばれた高速光ケーブルによるビデオ・オン・デマンド事業は,2000年7月に発表され,2000年の売り上げと利益に計上されていたが,実際には帳簿上のみの存在であった。そのようなネガティヴな情報は投資家の目から一切隠蔽され,エンロンの株価は2000年8月US$90.56という空前の高値をつけた。エンロンは資本市場と投資家達を欺き続けた。エンロンをしてそのような欺瞞に走らせた幾つかの要因のうち特に重要なものは次の三つであろう。即ち,(1)財務諸表から損失を隠蔽する複雑かつ巧妙な財務上の技術が存在したこと,(2)時価評価会計(mark-to-market accounting)に拘泥するあまり,自社株の高値維持の執念に取り憑かれてしまったこと,及び(3)"業績評価委員会"が主導する人事評価方式が,従業員を際限のない売り上げ拡大競争に追い込んでしまったことがそれである。エンロンは"特定目的法人"(SPE=Special Purpose Entity) を次から次へと設立し,損失の隠蔽を行った。エンロン株が最高値を記録してから丁度一年後,米国証券取引委員会(SEC)はエンロンのSPE業務に関する調査を開始すると発表した。SECがエンロンの財務関連業務に就き調査を開始したことが公表されるや,エンロン株はUS$20.65に下落した。エンロンの財務諸表を監査していた監査法人
アーサー
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アンダーセン
(ArthurAndersen)はエンロン関連の書類を一斉にシュレッダーにかけ始めたことが報道された。全米第2のエネルギー企業であるダイナジー社(Dynegy)は,エンロン買収計画を発表したが, エンロンの信用査定がジャンクボンド扱いに格下げされたことを理由に買収計画を白紙に戻した。この発表があった直後,エンロン株はUS$0.61に暴落,2001年12月2日エンロンは米国破産法第11条に基づき破産後の財産保全申請をニューヨーク地裁に申請した。裁判所の査定は,同社の負債総額630億ドルに対し処分可能資産総額は120億ドルに過ぎないことを明らかにした。倫理的利己主義が市場経済における経営倫理の規範として正当な役割を果たしうるのは,それが正しい知識ベースに裏づけされている場合のみに限られる。エンロン経営者達の知識ベースが不適切であったが故に,倫理的利己主義は企業不祥事の推進役に堕してしまった。
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