アメリカ合衆国におけるエスニック集団にとって、住民同士の接触の場が、エスニック集団への帰属意識を強化する装置としての役割を果たしているのはないかと考えた。以下、ロサンゼルス大都市圏に居住する
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系住民を対象にして、彼らの社会組織を観察した。
2000年のセンサスによれば、アメリカ合衆国には約4,650万人、総人口の約17%もの
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系住民が居住している。ただし、ここでいう
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系住民とは、
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語圏からの移民とその子孫すべてであり、
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系に固有の文化、あるいは
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系の集団に帰属する意識をもつ人々は、そのごく一部ということになる。
アメリカ合衆国では、19世紀後半に
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からの移民がピークを迎えた。第一次世界大戦前には、五大湖周辺など合衆国北部を中心にして、彼らは
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語を母語とし、
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から持ち込んだ技術を駆使して小麦栽培や酪農、ビール製造業などを発展させた。
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語新聞を発行し、
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人学校を普及させて、独自の社会を形成していた。
しかし、第一次世界大戦によって、
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文化がアメリカ社会で敵視されるようになると、多くの
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系の人々は、自分自身の固有の文化や社会を強調するのをやめ、アメリカ社会への融合を進めた。第二次世界大戦は、この傾向をさらに進める結果となった。アメリカ合衆国に住む
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系住民の多くは、この時期に合衆国国民としての意識と特性を決定的に強くもつようになったという。
一方、第二次世界大戦後、
ドイツや東ヨーロッパから多くのドイツ
系の移民がアメリカ合衆国に流入した。現在、ロサンゼルス大都市圏で確認される
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系住民のほとんどは、これら大戦後の移民とその子どもたちである。
ところが、ロサンゼルス大都市圏にさまざまなエスニック集団の集住地区がみられる中で、
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系住民が集住する地区は存在しない。
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系住民向けの教会や文化センター、同好会や余暇クラブ、新聞社は存在するが、広く分散して立地している。つまり
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系住民にとって、集住することは必ずしも必要な居住条件にはなっていない。その理由として、彼らの多くが、合衆国内に親戚や知人をもち、ロサンゼルスに居住する際に必ずしも
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系住民との接点が必要なかったこと、食生活などの生活様式がヨーロッパの出身地のものと大きく違わず、生活必需品を入手するための共同組織を必要としなかったこと、その一方で、
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系住民がまとまって活動することが、大戦後もしばらくの間はナチスと同一視される恐れがあったことから、集住が意図的に避けられたことなどをあげることができる。
もっとも、現在のロサンゼルス大都市圏には、
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系住民が集まり、
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文化が強調される場がいくつもある。たとえば
ドイツレストランやドイツ
の食材を販売する店舗、ブラスバンドや合唱団などの伝統文化を楽しむ余暇クラブを設けた施設がある。そこでは、オクトーバーフェストなど
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特有の祭も開催され、
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語圏で生まれた第一世代の人々をはじめ、
ドイツからの訪問者やドイツ
系以外のアメリカ人でにぎわっている。施設には
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のワッペンが飾られ、
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語で書かれた看板やポスターがめだつ。
現在、ロサンゼルス大都市圏では、こうした施設や余暇クラブなど22の
ドイツ系住民の組織がドイツ
・アメリカ連盟を構成して、全国的な活動を展開している。なお、それぞれの組織の代表者の多くは
ドイツ国籍をもつドイツ
人で、彼らは
ドイツ国内のドイツ
において、政府や企業、大学などの人脈を確保している一方で、ロサンゼルスやカリフォルニア、アメリカ合衆国の管理組織ともコンタクトをもっている。これら特定のエリートによってエスニック文化は商品化され、
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系住民に提供される。また、一般のアメリカ市民を対しても
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の伝統文化はアピールされ、ビジネスが成立している。一方、
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系住民の第一世代の人々にとって、これらの施設や組織は、アメリカ合衆国の他の人々とは異なる自身の文化を自覚する場であると同時に、
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系住民同士が知り合い、友人関係を結ぶ場としても機能している。このことは、
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系住民をはじめとするアメリカ合衆国のエスニック集団が存在し続ける際に、重要な条件になっていると考えられる。
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