詳細検索結果
以下の条件での結果を表示する: 検索条件を変更
クエリ検索: "バウハウス"
1,094件中 1-20の結果を表示しています
  • トレンド予測のためのシナリオ立案およびデザイン
    Otten Jacqueline
    感性工学 : 日本感性工学会学会誌
    2003年 2 巻 3 号 3-8
    発行日: 2003/10/15
    公開日: 2023/11/30
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 長谷川 哲哉
    美術教育学:美術科教育学会誌
    2008年 29 巻 445-458
    発行日: 2008/03/27
    公開日: 2017/06/12
    ジャーナル フリー
    バウハウス
    研究において近年使用されてきた「
    バウハウス
    第二世代」の概念を明瞭にするため,この世代に属すとみなされたG・フィーツとH・トレーケスの諸側面を事例として,広義での「
    バウハウス
    第二世代」の共通した指標を明らかにする。そのために
    バウハウス
    と近似した改革芸術学校での修学,元
    バウハウス
    教師からの影響,
    バウハウス
    の根本思想の受容,
    バウハウス
    教育学の理解とその発展的継承,等々の視点から考察し彼らの共通点を探る。これにより,戦後において
    バウハウス
    教育学を担った人たちの活動範囲,すなわち
    バウハウス
    教育学の影響史をより幅広く,しかもより豊かに捉えることができる。
  • 青山 智津子
    デザイン学研究
    1997年 44 巻 1 号 43-52
    発行日: 1997/05/31
    公開日: 2017/07/25
    ジャーナル フリー
    バウハウス
    は1919年にワイマールに設立された, 芸術とテクノロジーの一体化を目指した運動であり, 20世紀の芸術, 文化, 教育, 科学技術などの多面的な展開を予言的に示したものということができるだろう。しかしながら実際にはグロピウスの指導のもと, 産業合理化, 労働負担の軽減を目指した近代デザインの到達すべきモデルという姿が,
    バウハウス
    の基本的なイメージとして歴史的に総括されつつある。本稿では
    バウハウス
    が生命力を持つに至った原動力は, そうした主流の「機能主義的な」デザインの実現という側面のみならず, 「芸術家がデザインという現実的実際的な領域に合流しようとした」という, もうひとつの水脈にあったという点を特に強調したい。ヨハネス・イッテンやオスカー・シュレンマーら「もうひとつの水脈」を自ら体現した芸術家の目指した方向性を詳細に検討することによって, 20世紀のデザインが抱えるさまざまな問題についての新たな問いかけがようやく可能になるのではないだろうか。
  • ―バウハウスの「ニューヴィジョン」からスペキュラティブ・デザインへの展開―
    本村 健太
    美術教育学研究
    2018年 50 巻 1 号 353-360
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/03/31
    ジャーナル フリー

    2019年の

    バウハウス
    創立100周年を目前にして,
    バウハウス研究において筆者がこれまで継続してきたバウハウス
    神話を「脱神話化」するための歴史的考察と,
    バウハウス
    の「諸芸術の統合」及び「芸術と技術の融合」という芸術的理念を今日に引き継ぐ事例研究として取り組んだ筆者の映像メディア表現の実践を再確認するとともに,現代にまで有効な
    バウハウス
    の理念を再考し,
    バウハウス
    研究を基礎とする今後の実践的展開を示した。
    バウハウス
    に学び,未来を見据え,新しい展望によって造形における提案や解決を行う姿勢を「ニューヴィジョン」と設定し,昨今の「望ましい未来」を提案する「スペキュラティブ・デザイン」などに同様の姿勢をみた。その実践として著者が学生とともに参画し,成果を残した「岩手発・超人スポーツプロジェクト」を紹介するとともに,このテーマで思索するための「ペラコン課題」を教材化の事例として提案した。

  • 普照 潤子
    美術教育学:美術科教育学会誌
    2006年 27 巻 365-376
    発行日: 2006/03/31
    公開日: 2017/06/12
    ジャーナル フリー
    本論では,
    バウハウス
    教育学のアメリカにおける受容過程を,ニュー
    バウハウス
    時代のL・モホリ=ナギの芸術教育観,そしてニュー・
    バウハウス
    時代からMIT時代におけるG・ケペシュの思想的展開を分析する中で明らかにする。モホリ=ナギとケペシュは師弟関係にあり,共にヨーロッパからアメリカへ亡命し,ニュー・
    バウハウス
    で教鞭をとった芸術家・教育者であった。彼らの思想を分析・考察することで,彼らがヨーロッパからアメリカにもたらした
    バウハウス
    教育学を構成する思想の一端が解明され,またその受容過程が,これら2人の芸術家・教育者の世代間リレーというかたちで明らかとなる。
  • 小野 英志
    山陽学園短期大学紀要
    2001年 32 巻 1-9
    発行日: 2001年
    公開日: 2018/11/28
    ジャーナル フリー
    ピーター・ゲイが、ヴァイマール共和国を、あるいはそのモダニティを代表するもののひとつとして指摘した
    バウハウス
    は、1919年4月(ヴェルサイユ条約締結の2か月前)ヴァイマールに開校し、1933年8月(ナチス政権成立の7か月後)ベルリンで閉校した、造形Gestaltungの高等教育機関である。この
    バウハウス
    は1925年から30年にかけて、自らの名前を冠した
    バウハウス
    叢書Bauhausbucherを出版しているが、刊行された14巻の著者とタイトルは次のとおりである。1.ヴァルター・グロピウス.『国際建築』.1925.2.パウル・クレー.『教育スケッチブック』.1925.3.アドルフ・マイアー.『
    バウハウス
    の実験住宅』.1925.4.オスカー・シュレンマー編.『
    バウハウス
    の舞台』.1925.5.ピート・モンドリアン.『新しい造形』.1925.6.テオ・ファン・ドゥースブルク.『新しい造形芸術の基礎概念』.1925.7.ヴァルター・グロピウス.『
    バウハウス
    工房の新製品』.1925.8.ラスロ・モホリ=ナギ.『絵画、写真、映画』,1925.9,ヴァシリー・カンディンスキー.『点と線から面へ』.1926.10.J.J.P.アウト.『オランダの建築』.1926.11.カジミール・マレーヴィチ.『無対象の世界』.1927.12.ヴァルター・グロピウス.『デッサウの
    バウハウス
    建築』.1930.13.アルベール・グレーズ.『キュビズム』.1928.14.ラスロ・モホリ=ナギ.『材料から建築へ』.1929.このうちの8巻目、すなわちモホリ=ナギの『絵画、写真、映画』の刊行後に、出版元であるミュンヘンのアルベルト・ランゲン社Verlag Albert Langenから出された出版案内(プロスペクタス)には、9巻以降の続巻として、クルト・シュヴィッタースの『メルツ・ブッフ』、フィリッポ・トマソ・マリネッティの『未来主義』、トリスタン・ツァラの『ダダイズム』、ラヨシュ・カシャークとエルネー・カーライの『MAグループ』、テオ・ファン・ドゥースブルクの『デ・ステイル・グループ』、フリートリヒ・キースラーの『デモンストレイションの新しい形態』、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエの『建築について』、ル・コルビュジエの『建築について』等々、30タイトル以上が予告されている。(この案内には11巻の著者マレーヴィチの名前はない。)実際に刊行されたものと、未刊に終わったものの著者名とタイトルとを併せて見れば、編者であるグロピウスとモホリ=ナギがこの時点で
    バウハウス
    叢書に-ひいては出版主体たる
    バウハウス
    という組織そのものに-どういう性格を与えようとしていたかがほの見えて興味深いものがあるが、しかし、この出版案内のなかでとりわけ目を引くのは、パリで活躍したアメリカ人作曲家ジョージ・アンタイルが
    バウハウス
    叢書『音楽機械Musico-mechanico』の著者として予告されていることではあるまいか。カンディンスキーはアルノルト・シェーンベルクにヴァイマールでの職を斡旋しようとしたと伝えられ、アメリカに渡ったモホリ=ナギはジョン・ケイジとその実験音楽に協力しようと努力し、またヨーゼフ・アルバースなどが参加したブラック・マウンテン・カレッジでは積極的に音楽がとりあげられた経緯がある.
    バウハウス
    の多くの教授陣が音楽舞台-の要素としての音楽だけではなく、いわゆるシリアス・ミュージックとしての音楽-に対して、造形および造形教育に深く関わるものとして注目していた可能性は否定しにくい.リベラル・アーツと称して音楽を備えるべき教養のひとつとみなしてきた伝統にあっては、
    バウハウス
    がことさら音楽を軽視したと考える方が不自然ではあるが、少なくともグロピウスとモホリ=ナギは、ここで見るように
    バウハウス
    叢書という枠組みの中にアンタイルの著作を加え、さらにはハインリヒ・ヤコビによる『創造的音楽教育Schopferische Musikerziehung』をも加えようと企画している.一方で、
    バウハウス
    の周辺には、ヨーゼフ・マティアス・ハウアーのようにヨハネス・イッテンと協働すべく直接
    バウハウス
    の門を叩いた音楽家もいれば、
    バウハウス
    週間の演奏会に参加した音楽家も多い。本稿では、従来言及されることの少なかった、
    バウハウス
    関係者とアンタイルなどの同時代の作曲家たちの接触を通して、作曲家ないし音楽と
    バウハウス
    がどのような関係を維持していたのかについての考察-ひいては
    バウハウス
    を機能主義のチャンピオンとみなす視点を転換するためのひとつの契機に関する作業-の緒を研究ノートとして記しておきたい。
  • 田中 正明
    デザイン学研究
    1982年 1982 巻 39 号 5-6
    発行日: 1982/10/05
    公開日: 2017/07/25
    ジャーナル フリー
    1933年に
    バウハウス
    はベルリンでその幕をとじたが、その影響は世界中に拡がっていった。その具体的なあらわれとして、1937年にアメリカのシカゴ市に、モホリーナギが招かれて、"ニュー・
    バウハウス
    "が創設された。いわゆる"アメリカン・
    バウハウス
    "である。本考察は、そのニュー・
    バウハウス
    の研究の序論のひとつとして、校舎がどのような地点に、どのような環境に設立されたのかを知りたいために、1981年に海外研究員としてシカゴに滞在した機会に、その実地調査を試みたものの報告である。デザイン教育も、もとよりその内容が問われるべきものであるが、その学校の存在した環境もまた重要なファクターであるといえよう。とくに
    バウハウス
    をアメリカの地に移しかえて、新しい教育活動を展開したニュー・
    バウハウス
    の困難さは、今日まで5か所の校舎に移り変ったことによってもそれが象徴されているといえる。
  • ルイック ペトラ
    日本建築学会計画系論文集
    2006年 71 巻 599 号 157-163
    発行日: 2006/01/30
    公開日: 2017/02/17
    ジャーナル フリー
    本論文は、水谷武彦のドイツ及び
    バウハウス留学を水谷著のバウハウス
    に関する論文及び本来の
    バウハウス
    のカリキュラムを基に再現する読みである。水谷は、
    バウハウス
    に初めて留学した日本人である。そのため、日本において最初に詳細な
    バウハウス
    紹介を行った人であり、日本の
    バウハウス
    受容における重要人物であると考えられる。それにも拘わらず、現在までに、水谷に関する研究は非常に少ない。その原因の一つに、水谷が残した論文が少なかったことが挙げられよう。しかし、日本の
    バウハウス
    理念の受容と展開を研究するためには、水谷武彦の寄与を見逃すことはできない。水谷は1927年4月から1929年4月まで
    バウハウス
    に在籍し、ワルター・グロピウス及びハンネス・マイヤーの下で、各一年ずつ、勉強した。水谷の論文で解介される
    バウハウス
    のカリキュラムはマイヤーによるものと推測できるため、マイヤーの教育課程に従うと、水谷は一年ではなく半年間の基礎教育を受けたことが分かる。その中で、特にアルベルス及びカンディンスキーの授業が水谷に多大な影響を与えたようである。そして、基礎教育を修めた後、水谷は一年間家具工房で習った。家具工房での教育に関する彼の論文は存在しないが、ブロイヤー及びアルベルスの教育を、各半年ずつ受けたことは明らかである。さらに彼は、家具工房での修業と同時に、モホリ=ナギ、シュレンマー及びクレーの論理的な教育を受けた。水谷著の論文の中では、特にモホリ=ナギ及びシュレンマーのことが詳しく説明されており、彼らの授業が水谷にとって刺激的であったと思われる。そして、水谷は、最後の半年を建築コースで過ごし、主にマルト・スタムの指導を受けた。スタムの授業以外にどのようなクラスに参加したかは、資料が存在しないために不明である。しかし、帰国後に発表した水谷による建築論から、彼がグロピウス、マイヤー及びスタムが提案したドイツ住宅問題に対する解決法に強い関心を持ったことが分かる。水谷のレポートを
    バウハウス
    のカリキュラムと比較検討することで、最終的に、彼が二年間
    バウハウス
    に留学し、卒業せずに日本に帰ったことが明確になった。水谷著の論文は、グロピウス及びマイヤーの下で行われた
    バウハウス
    学習過程を、日本で初めて詳細に解介した貴重な資料であると思われる。従って、本稿は、水谷自身がその後日本で発展させた教育理念に関する研究の出発点となるであろう。
  • 大和田 龍夫
    日本ファジィ学会誌
    2001年 13 巻 3 号 226-233
    発行日: 2001/06/15
    公開日: 2018/01/07
    ジャーナル フリー
  • -意図した印象表現におけるシンプルな形状の感情誘起の検討-
    大場 久恵, 吉武 良治
    人間工学
    2022年 58 巻 6 号 276-286
    発行日: 2022/12/15
    公開日: 2022/12/23
    ジャーナル フリー

    本研究の目的は,ワシリー・カンデンスキーの「点・線・面」の概念を参照し,グラフィックデザイン初心者が意図した印象を表現するための適切なパラメーターを検討することである.まず,カンデンスキーを含む複数の先行研究から印象表現パラメーターを調査・整理した.調査により選定されたパラメーターを用いて,ラッセルの円環モデルに対応する線によるイメージ図と構成要素を加えたイメージ図をそれぞれ12個作成した.線によるイメージ図と構成要素を加えたイメージ図において,意図した印象表現のパラメーターの効果的な感情誘起について調べた.結果として,線によるイメージ図の検討における必要なポイントが得られ,構成要素を加えたイメージ図においては,ラッセルの円環モデルに基づく意図した結果を得ることができた.

  • 加藤 道夫
    図学研究
    2005年 39 巻 Supplement2 号 11-16
    発行日: 2005年
    公開日: 2010/08/25
    ジャーナル フリー
    1923年の国立ワイマール
    バウハウス
    展のために編纂された『国立
    バウハウス
    ・ヴァイマール1919-1923』には, グロピウスの記した「国立
    バウハウス
    の理念と形成」という文書が掲載されている.そこには, 消失点遠近法を回避し, 新たな空間表現が開発されたと記されている.ここでいう新たな空間表現とは軸測図である.本研究では,
    バウハウス
    における軸測図導入の意味をデ・スティル等との比較を交えながら明らかにした.その結果, 1) 見かけの形象から対象そのものの形象へ―その両義性, 2) 「人間中心の限られた世界」了解から「あらかじめ用意された無限の対象世界」の了解へ―その両義性, 3) エンジニアの図という軸測図の3つの特性に対応する,
    バウハウス
    のデザインの3つの雛, 1) 「見かけの形象」から「対象そのものの形象へ」, 2) 「人間中心の限られた世界」と「あらかじめ用意された無限の対象世界」の並存, 3) デザイナーによる建築からエンジニアによる「機械」としての建物へという性質が明らかになった.
  • 杣田 佳穂
    デザイン学研究特集号
    2007年 14 巻 3 号 51-
    発行日: 2007/01/31
    公開日: 2017/11/27
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • *田中 辰明
    空気調和・衛生工学会大会 学術講演論文集
    2020年 2020.3 巻 C-18
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/10/28
    会議録・要旨集 フリー

    バウハウス
    は、1919年にドイツのヴァイマールに設立された写真、工芸、舞台などを含む美術と建築の総合的な芸術学校であった。2019年は創立100年にあたり、博物館ができるなど様々な行事が催された。純粋の芸術学校の様に思われるが、デッサウに移転してからは暖房、換気、衛生設備の講義も行われた。校長グロピウスは「芸術と技術の統合」を主張し、暖房用放熱器を本来絵画がかけられるような場所に設置した。防水と断熱をともに解決しなければならない陸屋根を徹底して使用した。技術の改善により、現在一般に普及するようになった。

  • 合掌 顕, 箕浦 友美
    人間・環境学会誌
    2009年 12 巻 2 号 40-
    発行日: 2009/09/25
    公開日: 2019/03/19
    ジャーナル オープンアクセス
  • 冨田 英夫, 杉本 俊多
    日本建築学会計画系論文集
    2002年 67 巻 551 号 313-320
    発行日: 2002/01/30
    公開日: 2017/02/04
    ジャーナル フリー
    The purpose of this study is to consider the formal construction of German Modem architecture. Especially in this paper, the design process of Dessau Bauhaus by Walter Gropius are reconstructed from the standpoint of three dimensional volumetric reoresentation. The reconstruction is based on final proposal and eight materials of design process. The design process is divided into six steps. Three dimensional volumes are reconstructed in each stage. As a result, it is found that Gropius had evolved the three dimensional volumes of Bridge and Studio wing considering the mutual relation of each volume and the balance of whole form.
  • *常見 美紀子
    日本デザイン学会研究発表大会概要集
    2006年 53 巻 D13
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/08/10
    会議録・要旨集 フリー
     
    バウハウス
    の日本人留学生は、水谷武彦、山脇巌・山脇道子夫妻、そして大野玉枝の4人であった。前者3人は既に
    バウハウス
    関連研究では知られた人物であった。しかしながら、四人目の
    バウハウス
    入学者、大野玉枝は、ベルリンに移った私立
    バウハウス
    の学生名簿に明記されているにもかかわらず、情報はほんとんどなく、その後の消息は不明であった。 今回は戦前の『住宅』における大野のファッション作品と記事、『NIPPON』に掲載された紹介記事、および戦後における日展を中心とするテキスタイルデザイン作品について考察する。 特に、大野玉枝のその後の活動がなぜほとんど知られることがなかったという理由について、夫である大野俊一(ドイツ文学者)の当時の政治的な活動と関連することが明らかになった。
  • 鈴木 幹雄
    美術教育学:美術科教育学会誌
    2008年 29 巻 287-298
    発行日: 2008/03/27
    公開日: 2017/06/12
    ジャーナル フリー
    バウハウス
    教授陣のアメリカへの亡命に伴ってシカゴへ設立されたNew Bauhausに関して,我々は,『50年シカゴにおける
    バウハウス
    の後継学校50.Jahre new bauhaus. Bauhausnachfolge in Chicago』とロサンゼルス郡美術館の共同研究『亡命者達と移民達-ヒットラーからのヨーロッパ芸術家達の逃走Exiles+emigres. The flight of European artists from Hitler』を手掛りに一定の一般的理解を持つことができる。本論ではこれら資料と並んで,イリノイ大学ジョン・ワォーリー文書のホルダー198,ペーター・ゼルツ,リチャード・コッペ著「美術教師の教育」,モホリ・ナギの弟子であり,後イリノイ大学美術部門の主任教授となった人物,リチャード・コッペの証言「シカゴのNew Bauhaus」(ドイツ語書籍『
    バウハウスとバウハウス
    の人々Bauhaus und Bauhaeusler』)を手掛りに,本テーマを開明する。
  • 楮野 美沙, 冨田 英夫
    日本建築学会計画系論文集
    2024年 89 巻 825 号 2241-2251
    発行日: 2024/11/01
    公開日: 2024/11/01
    ジャーナル フリー

    This study clarifies the importance of Erwin Piscator as the client for the “Total Theater” project (1927) by Walter Gropius and explains the following based on publications containing primary sources from Piscator and Gropius: First, the ideal vision of theater that Piscator sought is illuminated. Next, changes in form during the design process of “Total Theater” project and the relationship with Gropius’s architectural office personnel are discussed. Finally, Piscator’s influence is discussed in two respects: changes in the stage set and in the person in charge during the design of the “Total Theater.”

  • 金子 宜正
    美術教育学:美術科教育学会誌
    2008年 29 巻 179-194
    発行日: 2008/03/27
    公開日: 2017/06/12
    ジャーナル フリー
    戦後のザールブリュッケン国立美術工芸学校における芸術教育に,
    バウハウス
    第二世代(
    バウハウス
    やイッテン・シューレの関係者を含む)が貢献していたことを,現地における文献・資料調査や卒業生への聞き取り調査等をもとに明らかにした。特に,オットー・シュタイナートとハネス・ノイナーによる
    バウハウス
    教育の影響や,ボリス・クライントとオスカー・ホルベックが行なった基礎課程にイッテンの芸術教育が活かされていたことが具体的にわかった。また,同校における専門的な芸術教育家養成や展覧会活動等について述べた。さらに,戦後の芸術教育や芸術活動に貢献した
    バウハウス
    第二世代の中心的な人々が1930年頃のベルリンに集まっていたことを指摘し,その重要性について論じた。
  • 富田 英夫, 杉本 俊多
    日本建築学会計画系論文集
    2001年 66 巻 550 号 287-294
    発行日: 2001/12/30
    公開日: 2017/02/04
    ジャーナル フリー
    The purpose of this study is to consider the formal construction of German modern architecture. Especially in this paper, the design process of Stanz-Messer-Fabrikation of Fagus Shoe-Last Factory by Walter Gropius is analyzed from the standpoint of formation of volumetric formal system. As the research method, the design process is divided into three steps and variations, and then, three dimensional form is reconstructed from original sketches and drawings. As the result, it is found that unification and simplification characterized the volumetric formal system using the contrast between the glass curtain wall and brick walls.
feedback
Top