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クエリ検索: "存在と時間"
672件中 1-20の結果を表示しています
  • 常染色体優生遺伝疾患をもつ一女性の体験
    中込 さと子, 堀内 成子, 伊藤 和弘
    日本助産学会誌
    2004年 18 巻 2 号 44-62
    発行日: 2004/12/31
    公開日: 2010/11/17
    ジャーナル フリー
    目的
    本研究は, 遺伝的特質を親から子へ引き継ぐことの意味を探ることを中心に据えて, 遺伝性疾患をもつ女性Fさんにとって子どもを産み育む体験を記述することを目的とした。
    対象および方法
    1) 協同研究者: 軟骨無形成症をもち, 既婚で, すでに1人以上の子どもを得ており, 現在妊娠していない女性Fさんである。
    2) 研究方法: 研究デザインは質的帰納的記述研究とした。研究方法は, Giorgi, A.の提唱した現象学的アプローチとし, Heidegger, M.の存在論を前提立場とした。分析は, 第1に協同研究者の語りから生きられた体験 (lived experience) を統合的に記述し, 第2に記述された体験をHeidegger, M。の存在論に基づき研究者が解釈を加えた。データ収集は, 非構成的面接を2002年8月~11月に行った。
    結果
    Fさんは新生突然変異で出生し, 他の家族に同じ特質の人がいない環境で育った。Fさんは,「障害」と認めたくない母親から, 何事も同級生たちと同じように取り組むことを期待され努力し続けた。しかし高校卒業時より, 社会での自立に向かう過程でさまざまな障壁があり屈辱的な思いもした。しかし, 身障者の人びととの出会いや身障手帳を取得した以降, 社会的に「正当に」評価されたと感じ精神的に安定した。娘が同じ病気だと知って, 娘に対して, Fさん自身が親から育てられた方針とは逆の,「頑張らなくてよい」というこの身体的特質に対する正当な考え方を教えた。そして娘の身体だけでなく, その時々で感じる辛さも理解し, それに対応できるよう先々に準備をした。
    またFさんは, 親の会活動に参加し親や当事者たちを支えた。Fさんは「軟骨無形成症」をもった当事者の声を発信する活動と, 当事者としての自分自身の「個人史」を書き始めた。この活動を通して「骨無形成症者」が社会に広く理解されることを願っている。
    Fさんの体験の中心的な意味は,「自分の人生をかけて, 娘とすべての当事者を慈しむ」として理解された。中心的意味を形成する事柄として, 1) 他者評価を超えて, 自己を正当に評価する, 2) 生きてきた体験をもとに, 子どもの人生に関与する, 3) 子育てを通じて, 自己の存在の意味が明確になっていく, 4) ありのままの自分たちを受け入れ, 形のないものを志向する, が確認できた。
    結論
    子どもに遺伝的特質を引き継いだ体験は, 病の体験を引き継ぐ辛さではあったが, 自分の体験をもとに子どもの人生に関与し, わが子の存在によって自己の存在の意味を明確になっていった。またこの遺伝子がこれからも引き継がれるという観点から, 自分たち親子だけにとどまらず, 地域社会の未来の平和に対する志向の拡がりが確認できた。
  • 金杉 高雄
    太成学院大学紀要
    2007年 9 巻 1-13
    発行日: 2007/03/31
    公開日: 2017/05/10
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
    言語変化は認知主体が身体を環境に投入することから引き起こされる。ハイデガーの「
    存在と時間
    」が言語学に提供する哲学的意義は言語変化を動機付ける要因にある。この哲学思想から言語変化を捉えてみると、変化を遂げる時間、認知主体の存在そして、その後に現れてくる想像力の3要素によって変化は完遂される。このような言語変化はカントが「純粋理性批判」で述べているような想像力を最も軽視する立場からは説明され得る現象ではない。より動的で開かれた象徴体としての言語であるからこそ言語が進歩し、また変化を蒙ることになるのである。言語は無機質な閉じた集合体であると、定義すると科学・技術的には予測可能な高度に抽象化された記号体として捉えられる危険性がある。この立場から言語を捉えるのであれば今までに引き起こされた言語変化はすべて事前にセット・アップされていたプログラムであり、もはや認知主体が相互に関わる余地が排除されることになる。社会的・文化的影響に基く言語変化にとっては、この種の哲学的思考による言語観は予測可能性の観点からすると、説明を施すときに非常に困難な問題に直面するのである。
  • 太田 修司
    日本の神学
    1993年 1993 巻 32 号 68-88
    発行日: 1993/10/05
    公開日: 2009/10/23
    ジャーナル フリー
  • 初期ハイデガーにおけるキーネーシス解釈
    阿部 将伸
    哲学
    2015年 2015 巻 66 号 111-126
    発行日: 2015/04/01
    公開日: 2017/06/10
    ジャーナル フリー

    Es ist bekannt, dass Heidegger seine eigene Ontologie durch die „Destruktion“ der traditionellen, besonders der aristotelischen Ontologie konstruiert hat und weiter, dass sich seine Anstrengungen der Aristoteles-Interpretation auf die kīnēsis (Bewegung) konzentriert haben.

    Aristoteles bestimmt kīnēsis als „entelecheia des Möglichen als solchen“, oder „energeia atelēs“. Deswegen bemüht sich ein Großteil der bisherigen Forschung, zu beleuchten, wie Heidegger die Begriffe entelecheia („Vollkommenheit“), energeia („Wirklichkeit“), dynamis („Möglichkeit“), und telos („Ende“) ausgelegt hat. Gleichzeitig findet aber ein Wort in der kīnēsis-Bestimmung nur wenig Aufmerksamkeit: „als“ (). Dieses „als“ hat zweifellos insofern ein großes Gewicht, als Heidegger das „als“ für „die primäre Funktion des logos“ gehalten hat. Trotzdem besteht weiterhin das Problem unklar bleibt, wie er das „als“ in der kīnēsis-Bestimmung verstanden hat. Meine Abhandlung erörtert dieses Problem und versucht zu erhellen, auf welche Weise er die innere Beziehung zwischen kīnēsis und logos aufgefasst hat.

    Die von Aristoteles bestimmte kīnēsis sagt nach Heidegger keineswegs etwas über die objektive Eigenschaft der Welt aus, sondern spricht vielmehr über die „Erscheinungsart“, oder die „Begegnisart“ der Welt zum Menschen. Einerseits kann die Welt jeweils sich zeigen als etwas, sofern der Mensch, der seinem Wesen nach sprechend ist, in der Welt lebt. Andererseits kann der Mensch etwas als etwas ansprechen, sofern die Welt jeweils als etwas erscheint. Dieses Entsprechen zwischen Menschen und Welt kann nur vermittels des „als“, d.h. des logos, entstehen. Auf den logos stützt sich diejenige kīnēsis, welche die „Begegnisart“ der Welt zum Menschen bedeutet.

    Gerade deshalb hat Aristoteles gemäß Heideggers Interpretation das „als“ in seine kīnēsis-Bestimmung eingeschoben. Auf diese Weise ist es Aristoteles gelungen, das vom logos vermittelte Phänomen der Welt begrifflich zu verstehen. Seine Bestimmung von kīnēsis trifft genau diese durch den logos durchgedrungene Seinsweise der Welt. Kīnēsis ist also, nach Heideggers Auslegung, nichts anderes als ein phänomeno-logischer, onto-logischer Begriff.

  • 細川 亮一
    哲学
    1974年 1974 巻 24 号 160-172
    発行日: 1974/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 伊藤 徹
    社藝堂
    2022年 2022 巻 9 号 19-34
    発行日: 2022/09/20
    公開日: 2022/12/15
    ジャーナル オープンアクセス
    語ることが必然的にもつかたちは、語りの内容にも⼒を及ぼす。本論は、思想を、あるいは思想について語る形式としての論⽂が、思想内容に影響を与えた事例として、マルティン・ハイデガー『
    存在と時間
    』と、それ以前の彼の思想との関係を取り上げた。さらに科学技術化の時代の根本動向である有⽤性の⾃壊に⾔及した上で、ワルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』における「触覚的」経験に着⽬しつつ、不動の点を前提としない経験に則した語りの別なかたちとして「随筆」に着⽬し、「触る」ことをテーマに実験的事例を付した。
  • 川端 愛
    日本がん看護学会誌
    2019年 33 巻 論文ID: 33_kawabata_20191204
    発行日: 2019/12/04
    公開日: 2019/12/04
    ジャーナル フリー

    目的:本研究では,がん患者が再発がんを生きる経験について,経験者の視点から探求することを目的とした.

    方法:現象学的アプローチを用いた質的記述的研究である.一般病院の外科で加療中の,再発がんを患う患者に,非構造化面接法を実施し,村上の方法を参考に分析を行った.また,分析を進める視点のとり方として,人間存在の在り方を基礎づけたHeideggerの理論を基盤においた.

    結果:死は〈もしも〉と仮定されるが,まったくの仮想ではなく,具体として現れた.しかし,参加者は,時間を〈少しずつ〉進め,生きる手ごたえを確かなものにしていた.そして,自分自身をがん患者としてひと括りにするのではなく,個を重みづけする〈それぞれ〉性を問いながら,他者のために役立つ〈この手〉が届く距離に在ることが励みになっていた.

    結論:再発がんを患う患者は,死を仮定しながら,少しずつ時間を進め,自己を活そうとする経験をしており,個別の物語を紡ぎ始めていた.

  • 科学技術の論理と心の主体性
    村上 保壽
    密教文化
    1994年 1994 巻 186 号 39-52
    発行日: 1994/03/30
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
  • 矢ヶ崎 香, 小松 浩子
    日本がん看護学会誌
    2007年 21 巻 1 号 57-65
    発行日: 2007年
    公開日: 2017/02/01
    ジャーナル フリー

    要 旨

    本研究は,外来で治療を続ける再発乳がん患者が安定した自分へ統合していく体験を記述,解釈し,その体験の意味を明らかにすることを目的とした.研究方法は研究協力者の主観的な体験の意味を明らかにするために,現象学的アプローチ法を基に質的記述的方法を用いた.データ収集は外来で治療を続ける再発乳がん患者4名に非構成的面接を行った.

    体験を記述,解釈し,意味づけた結果,安定した自分へ統合していく体験は,【現実を受け入れて,現在を生きていく】,【他者とのつながりを通して,自分らしく生きていく】にまとめられた.これらの意味は「時間性として,厳しい状況を自分の現実として受け入れ,自分のありようや新たな可能性を見いだし,それらを目指して現在に価値を置いて生きていくこと」や「信頼のおける他者との開かれた関係性の中で自分らしく在り続け,自由に生きていく」ことであり,さらに厳しい状況の中でも自分の可能性を伸び拡げ,よりよい将来をもたらす可能性があると考えられた.この体験は自ら,安定した自分へ統合していくものと示唆され,それには重要他者の存在や他者との語り合いが重要であった.

  • ―タイ・植林技術開発研究を事例として―
    松井 直弘
    熱帯農業
    2004年 48 巻 5 号 285-289
    発行日: 2004/12/01
    公開日: 2010/03/19
    ジャーナル フリー
  • -空間における「見る」「行く」「つくる」-
    桑子 敏雄
    感性工学
    2010年 10 巻 1 号 10-17
    発行日: 2010/12/28
    公開日: 2023/07/31
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 加藤 泰樹
    体育・スポーツ哲学研究
    1989年 11 巻 1 号 13-26
    発行日: 1989年
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
  • Occupational Being
    吉川 ひろみ
    作業科学研究
    2018年 12 巻 1 号 38-39
    発行日: 2018/12/25
    公開日: 2019/05/10
    ジャーナル フリー
  • 行正 徹
    バイオメディカル・ファジィ・システム学会誌
    2011年 13 巻 2 号 105-108
    発行日: 2011/10/20
    公開日: 2017/09/04
    ジャーナル オープンアクセス
    時間とは何か。改めてこの問いに論理的に答えようとするとなかなか、現在尚困難を伴うように思われる。物理学の分野では相対性理論により時間の本性の理解が深まり、物質、空間を含めて全体で理解する必要があるとされている。時間は空間と不可分で同等に扱われるべきものとされている。しかし、現実生活で時間は明らかに空間とは異なるものであり、相対性理論におけるミンコフスキーの4次元世界も実在性のあるものとは考えにくい。例えば、体験的には現在、過去、未来と時間は絶対的に区別されていて、物理学で扱うような等質な時間ではないのも事実である。また、体験的には「今」が全てでもある。この当たりの状況を精神病理学の観点から取り上げ、時間に関する物理との接点を探る。
  • 中島 秀之
    デザイン学研究特集号
    2011年 18 巻 1 号 20-21
    発行日: 2011/06/01
    公開日: 2017/11/27
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 川森 康喜
    教育哲学研究
    1964年 1964 巻 10 号 50-67
    発行日: 1964年
    公開日: 2009/09/04
    ジャーナル フリー
    今日論議の中心となっている真理問題には、「精密科学ならびに数学的論理学の形式化された真理概念」-この真理は公理の体系の中で矛盾していないことである-と、「純粋に主体的に人間存在へ関連させられた真理規定」-この真理は常にWahrheit für michである-との二つの立場があると考えられる。しかしここで取り上げられるのはいうまでもなくWahrheit fürmichの立場である。この立場は論者によってはプラグマティズムと実存哲学に妥当するとされるが、両者が等しくをWahrheit für michの立場にたつとしても、両者のもつそれぞれの真理の本質構造からみて、明らかに全く同一の真理構造をあらわすとはいえないだろう。しかしここでは主題の性質上プラグマティズムの真理の立場について詳しくは触れない。実存哲学の立場からというよりも、ボルノウの立場からこのWahrheit für michをめぐってそれの構造を分析し、それのもつ意味について明らかにしたい。
    一般的にWahrheir für michの図式で表わされる真理は、「主体性-真理」のカテゴリーで示され「真理は主体性である」ことを意味する。キェルケゴールの逆説的ないい方によれば「わたくしは真理である」という意味にもとられるだろう。しかし端的にいえばこのWahrheit für michは、わたくしに対する真理、いいかえるとわたくしと真理とのかかわりあい、即ちわたくしがいかに真理とかかわりあうかというように理解すべきである。それ故真理とは「何」 (Was) であるかが問われるのではなくて、むしろわたくしが真理と「いかに」 (Wie) かかわりあうかというわたくしの態度ないし仕方が問われるのである。このような真理の問われ方はまたボルノウの真理に対する根本的な態度でもある。したがってここで問題とされるのは「わたくしと真理とのかかわりあいの仕方」をボルノウが具体的にはどのような意味において受けとめているか、いわば彼における真理の本質についてである。
    ところでボルノウの真理追求の経過をみると、彼は精神科学の方法論的自立根拠を尋ねることでもって彼の真理問題の発想の拠りどころとした。自然科学とは異なった学的根拠を精神科学に求めること、即ち精神科学に独自な方法論的認識を尋ねることによって真理の本質に触れるのである。いいかえると精神科学の客観性を問うことによって真理の本質を追求する。しかも厳密にいえば後に明らかになるように、精神科学における真理の解明を通じて究極的には真理の実存的性格を明らかにするのである。精神科学は彼によれば、人間の生命に直接かかわる学であって、それの究極の狙いは人間生命の全体的関連を認識し明らかにするところにある。それ故精神科学の方法論的認識を問うことは、そのまま人間の生命の全体的関連における認識の機能を問うことになる。だから人間の生の形成をその究極の目的とする教育学が、自らの思考形式を精神科学の思考形式にその範を求めるとしても、なんら不当ではないだろう。もとより教育学が社会科学の範疇に属するか、それとも精神科学の範疇に属するかは今日の一つの問題である。しかし教育学の思考形式の一つを設定する意味において、われわれは精神科学の方法論的認識にアプローチすることに異議をもたないであろう。それ故この論文の主題はボルノウにおける真理の本質を解明するところにあるが、この解明を通じて教育学的思考ないし教育学の方法論的認識に対して一つの示唆を与えれば幸いである。
  • M・ハイデガー『存在と時間』以前のパトス解釈
    井谷 信彦
    教育哲学研究
    2005年 2005 巻 91 号 47-65
    発行日: 2005/05/10
    公開日: 2009/09/04
    ジャーナル フリー
    This paper investigates the origin of Heidegger's theory of Pathos prior to his Sein und Zeit. Pathos is a concept generally means moods or sufferings. It has long been considered that moods and sufferings are closely related to education and human development. How is it possible, however, to think about moods and sufferings in connection with education? Heidegger's theory of Pathos gives some valuable suggestions concerning this question.
    In his earlier thinking, Heidegger already appreciated a close relationship between moods and sufferings, on one hand, as well as our existence, on the other. In his lecture, “Grundbegriffe der aristotelischen Philosophie” (1924), he scrutinized the Greek concept of Pathos. He attempted to reveal those fundamental grounds upon which our understanding of, and speaking about, Pathos become possible. According to Heidegger, the concept has three basic meanings; 1) variable disposition, 2) suffering, 3) passion. In our Dasein, we human beings always have the possibilities of being angry, grieved, or pleased. In these variable moods, we as In-der-Welt-Sein are constantly and inevitably caught by the world and ourselves. Being thus encountered by the world or by ourselves, we are in such movedness (Bewegtheit) as being embarrassed or making up our minds. In this way, we always find the world and ourselves in moods through Logos.
    In conclusion, the study of the concept of Pathos brings us to those fundamental experiences which enable us to understand and speak about moods and sufferings in connection with education : 1) movedness, 2) passivity, 3) discoveredness (Entdecktheit). The present paper is an initial attempt to find a proper way to think and speak about moods and sufferings.
  • カントの観念論論駁
    中島 義道
    科学基礎論研究
    1981年 15 巻 3 号 137-141
    発行日: 1981/12/25
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    カントは『純粋理性批判』第2版 (1787年) において「先験的原則論4.経験的思惟一般の要請」の中に, 「観念論論駁」という一節を付け加えている。ここにカントの意図するのは, デカルトの2元論 (rescogitans, resextensa) に由来する「外界の存在証明」という難問を解決することである。
    その位置は「現実性」についての説明の最後のところである。カントは第2版に次の一文を挿入することにより, 「現実性」と「観念論論駁」との橋渡しをしている。
    「現存在 (Dasein) を間接的に証明しようとするこれらの規則に, だが観念論は強く反対する。ここで観念論論駁を行なうのが適当であろう。 (B274) 」「観念論論駁」のこの位置は, カントにおいては「外界の存在証明」が「現実性 (Wirklichkeit) 」という様相のレベルで問題になっているということを示している。現存在 (Dasein) は現実性 (Wirklichkeit) と同義である。この橋渡しの上で, 私の現存在 (MeinDasein) の意識から私の外の物の現存在 (Dasein einesDingesauBermir) を証明することが, カソトの目標である。
    その場合, カントの視点は一貫して「時間規定 (Zeitbestimmung) 」である。ここに「感性論」における「主観の形式」としての時間とは異なった時間理解が現われている。一口で言えば, それは物理学的測定可能な時間である。本稿の目的は「時間規定を通じての外界の存在証明」というカントの試みを再検討し, それによリカントの時間理解の一端をうかがうことである。 (1)
  • 福良 薫
    日本看護研究学会雑誌
    2015年 38 巻 1 号 1_113-1_125
    発行日: 2015/04/20
    公開日: 2016/01/07
    ジャーナル フリー
     本研究は,身体障害を抱えた脳卒中患者の生活の再構築を支援する具体的な看護介入を検討することを目的とした。研究対象者は,初発の脳卒中により麻痺をはじめとする身体機能障害をもつ者とした。脳卒中患者の体験を患者の語りを通して探求した予備調査をもとに,看護介入プロトコルを作成した。研究参加の協力が得られ,退院までかかわった7事例は全員男性で,年齢は49歳~70歳であった。入院中の面接はプロトコルに従って行われ,1人あたり3~6回で,1回の面接時間は5~111分であった。対象者たちの「語り」は,ネガティブな感情の表出から,介入の回が進むにつれ人生における罹患の意味づけをする内容に変化していた。また,研究者に向けて発せられた「語り」は,聴く者の存在により心の整理をしているとみてとれた。これらから作成したプロトコルは,生活の再構築に向けた看護介入として有用であると考えられた。
  • HAM Hyoung seok
    印度學佛教學研究
    2019年 67 巻 3 号 1118-1123
    発行日: 2019/03/25
    公開日: 2019/09/30
    ジャーナル フリー

    本稿はシャーンタラクシタ著『真理綱要』Śrutiparīkṣā章に挙げられるミーマーンサーのヴェーダ著者不在/非人為性を分析する.シャーンタラクシタはバーヴィヴェーカが『中観心論』「ミーマーンサー章」で行なう批判も適用するが,最終的にはダルマキールティの批判を主に採用する.シャーンタラクシタが紹介するバーヴィヴェーカの主張は,1)仏典にも著者は存在しない,2)ヴェーダ作者の存在は証明可能である,の二点である.しかしながら,シャーンタラクシタはバーヴィヴェーカの主張と同様の議論をクマーリラに対する反駁として使用している.更に,最終的にシャーンタラクシタが採用する主張はダルマキールティの「ヴェーダは如何なる意味も持っていないテキストである」というものである.本研究は,シャーンタラクシタによるミーマーンサー批判の中でバーヴィヴェーカの見解が導入されていることを明らかにする.それにより『中観心論』と『真理綱要』にはいかなる関係もないという先行研究の見解を訂正する.

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