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クエリ検索: "9世紀"
3,933件中 1-20の結果を表示しています
  • 古林 清一
    イスラム世界
    1977年 12 巻 15-36
    発行日: 1977年
    公開日: 2023/10/01
    ジャーナル フリー
  • 日本船舶海洋工学会誌 KANRIN(咸臨)
    2017年 70 巻 ii
    発行日: 2017/01/10
    公開日: 2022/10/28
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • 池田 修
    オリエント
    1968年 11 巻 3-4 号 121-160,198
    発行日: 1968年
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
    It is well known that the study of Arabic was carried on concurrently in Basra and Kufa, towns founded immediately after the Islamic conquest of Iraq.
    The development of these two cities was quite different. Basra, situated on the right bank of the Satt Al-crab, became one of the centers of world trade and has maintained its important position to the present. Kufa, on the other hand, played a major role in state adminstration at first, but lost its importance after the foundantion of Baghdad.
    The study of the Arabic flourished first in Basra, then in Kufa. Because of the controversy between the two towns the rules of the language were made from different viewpoints.
    The auther's intention is to examine the literary works of some of the famous scholars, thereby elucidating the differences between the Basra and Kufa schools. He concludes that the Basrans thought more logically and critically than the Kufans, establishing rigid rules which did not make exceptions for individual peculiarities. They used the so-called “qiyas” (analogy) system more strictly than did the Kufans.
    Although the Kufans began their studies with the “shuyukh” (masters) of Basra, they were soon expounding veiws which, more archaic and more natural, approved the individual exceptional styls (“shudhudh”) as a basis (“usul”) for further analogies. They were, so to speak, anomalists, while the Basrans were analogists.
    When Baghdad become the new intellectual center the controversy between the Basra and Kufa schools become more and more attenuated, finally disappearing in the 10th century. The residents of Baghdad chose between the rival doctrines by using both of them indiscriminately, thus representing electicism in the history of Arabic studies.
  • 井出 靖夫
    日本考古学
    2004年 11 巻 18 号 111-130
    発行日: 2004/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    古代本州北端に居住したエミシ集団は,これまで文献史料によって形作られたイメージが強く,考古学的にエミシ集団の特質について論じられることは少なかった。本州エミシ集団と律令国家との関わり合いや,人やモノの交流の様相についてなど考古学的に明らかにされるべき点は,数多く残されている。よって,本稿では東北地方北部のエミシ集団と日本国との交流に関して,考古学的に解明することを目的とし,またエミシ社会の特質についても明らかにしようと試みた。
    東北地方における遺物の分布,集落の構造,手工業生産技術の展開等の分析からは,本州エミシ社会においては
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    世紀
    後葉と10世紀中葉に画期が認められることが明らかとなった。
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    世紀
    後葉の画期は,本州エミシ社会での須恵器生産,鉄生産技術の導入を契機とする。
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    世紀
    中葉以前にも,エミシと日本国との問では,モノの移動や住居建築などで情報の共有化がなされていたが,国家によって管理された鉄生産などは城柵設置地域以南で行われ,本州エミシ社会へは導入されなかった。しかし,
    9
    世紀
    後葉の元慶の乱前後に本州北端のエミシ社会へ導入される。その後,10世紀中葉になるとエミシ社会では,環壕集落(防御性集落)という特徴的な集落が形成され,擦文土器の本州での出土など,津軽地方を中心として北海道との交流が活発化した様相を示す。
    このような
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    世紀
    後葉から10世紀中葉のエミシ社会の変化は,日本海交易システムの転換との関連性で捉えられると考えた。8・
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    世紀
    の秋田城への朝貢交易システムが,手工業生産地を本州エミシ社会に移して津軽地域のエミシを介した日本国一本州エミシ-北海道という交易ルートが確立したものと推測した。また交易への参加が明確になるにつれて,本州のエミシ文化の独自化が進んでいくことが明らかにされた。
  • 副葬品から見た8・9世紀の墳墓
    渡邊 邦雄
    日本考古学
    2004年 11 巻 17 号 43-65
    発行日: 2004/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    8世紀初頭に厳格な造墓規制を伴って完成した律令墓制は「火葬」をスタンダードとして採用し,古墳時代と同様,大和の優位の下で展開する。その後,8世紀末葉の長岡・平安遷都によって政治の舞台が山城地域に移ると,旧来の仏教色を脱却した新しい葬送思想に基づく墓制が木棺墓を中心に花開くことになる。
    本稿では,土葬と火葬という葬法の違いが社会構造の上で一定の意味を持ち,特定の葬法が特権的葬法として社会的立場と結びつくことを律令墓制と位置付けたが,
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    世紀
    後半になると,各地域の共同体レベルで葬送儀礼の地域色が顕在化し,社会的次元における儀礼の共有化は志向されなくなったのである。ここに,律令墓制はその歴史上の役割を終えたと判断したが,本稿では以上の検討を行うために,各墳墓から出土した副葬品の様相を手がかりとした。
    木棺墓の導入以降,須恵器瓶子や黒色土器,漆製品,玉類などの副葬品は木棺墓と火葬墓では厳密な使い分けが行われており,両者の間には他界観を含め明確な区別が存在したことがわかった。そして,
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    世紀
    を通じて,律令貴族を中心とする特権階層はきわめて政治的な墓制として木棺墓を造営したのである。特に,
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    世紀
    中葉以降は氏族集団の系譜意識や親族原理の大きな転換期であり,墳墓の立地から見れば,大和各所の古墳の存在を意識した木棺墓の造営が続くことになる。
    しかし,
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    世紀
    中葉を契機に仏教的葬送儀礼が社会に浸透していく中で,仏教的他界観も広く受け入れられるようになり,
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    世紀
    後半には副葬品から判断する限り,両者の区別が曖昧になることもわかった。ただ,律令貴族の死穢意識は根強いものがあり,仏教的他界観を伴った新しい葬送儀礼観が木棺墓において完成するのは10世紀に入る頃までずれ込んだ。そして,これ以降,葬法の選択は造墓者側の主体性に委ねられることとなり,経済力を有する裕福な階層なら自由に造墓をなし得るという新しい墓制が誕生したのである。
  • 中川 光弘, 宮本 毅, 田中 勇三, 吉田 まき枝, 谷口 宏充
    日本火山学会講演予稿集
    2004年 2004 巻 A27
    発行日: 2004年
    公開日: 2017/02/10
    会議録・要旨集 フリー
  • 山崎 一穂
    印度學佛教學研究
    2018年 66 巻 3 号 1056-1062
    発行日: 2018/03/25
    公開日: 2019/01/25
    ジャーナル フリー

    Subhāṣitaratnakaraṇḍakakathā(SRKK)は六波羅蜜の実践を説く191の詩節の集成である.SRKKは詩人Śūraの作とされるが,彼が4世紀に活動した同名の仏教詩人ではないことはSRKKにŚāntideva(西暦7–8世紀の間)のBodhicaryāvatāraからの詩節引用があることから明らかである.またŚūraの活動年代の下限はSRKKのチベット訳の年代から推定し11世紀に置くことができる.17世紀のチベット僧Tāranāthaが著した史書には,8世紀のパーラ王朝のGopāla一世の同時代人として学僧Śūraの名が現れる.従って彼がSRKKの作者である可能性が考えられるが,このŚūraをJātakamālā(GJM)の作者である仏教詩人Gopadatta(西暦5–8世紀の間)と同一人物と見る見解もある.本論ではSRKKとGJMで用いられる〈飾り〉(alaṃkāra),韻律,文体の用例に注目し,ŚūraとGopadattaの同一人物説を検証した.その考察結果は以下のように要約できる.

    SRKKには,GJMに特徴的な,比喩基準と比喩対象が性・数・格の点で一致しない〈直喩〉(upamā)の用例が等しく見られる.この点だけに注目すると,ŚūraとGopadattaが同一人物である可能性は排除できない.しかし両者の作品には使用される韻律の傾向に相違がある.またSRKKには長い複合語を用いて神々と侍女の沐浴を描く詩節の用例が見られるが,GJMには同様の用例が見られない.興味深いことに,長い複合語で水遊び(jalakrīḍā)を描く詩節は

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    世紀
    以降に著されたヒンドゥー教宮廷詩に顕著に見られる.この事実を考慮に入れると,Śūraが
    9
    世紀
    頃の作品の美文作品を知っており,これを自作にとりいれた可能性が考えられる.従ってŚūraとGopadattaが同一人物であることはあり得ず,前者は西暦
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    世紀
    以後に活動した詩人と見るのが妥当と思われる.

  • *小野 映介, 宮本 真二
    日本地理学会発表要旨集
    2008年 2008f 巻 514
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/11/14
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究目的  信濃川の氾濫原が発達する越後平野中部には,古代から近世の考古遺跡が数多く分布する.なかでも,平安時代初頭(
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    世紀
    前半)の遺構や遺物は多くの遺跡で検出されており,当時,氾濫原において活発な土地利用が行われていたことが示唆される.しかし,この頃に成立した集落の大半は数十年で廃絶し,続く
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    世紀
    後半の遺物の出土例は極めて少ない. ところで,
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    世紀
    前半の遺跡における遺物の出土状況には共通点が認められ,浅層部に堆積した層厚が数十_cm_の黒色を呈する腐植土層中,もしくはその下位の層準の最上部に平安時代初頭の遺物が集中して包含される.また,この黒色を呈する腐植土層は遺跡の範囲以外にも広く分布しており,1,150~1,050yrsBPの14C年代値が報告されている. こうした遺物の包含状況は,平安時代前半における遺跡の消長と,黒色を呈する腐植土層の形成の関連性を示唆するが,越後平野中部に広く分布する同層の形成環境については明らかにされていない. 本研究では,平安時代前半(特に
    世紀
    )における越後平野中部の地形環境について,特に黒色腐植土層の形成過程に注目して調査・検討した. 2.黒色腐植土層の分布状況と14C年代  19地点(南北約5_km_)において,ハンドオーガーを用いたボーリング調査を行なった.黒色腐植土層は,地点によって検出深度・層厚・層相が若干異なるが,地表面下1m以浅に広く分布しており,シルトを基質とし,層厚は10~50_cm_,上位をシルト~細砂によって覆われている.分解の進んだ有機物を多量に含んでいるため,黒色を呈する場合が多いが,ヨシなどの未分解の植物遺体を多く含み暗灰色を呈する地点もある.黒色腐植土層と下位の層準との境界はシャープであるが,同層の上部は上位の層準に漸移的に変化する. 地表面下40~30_cm_(標高3~3.1m)の黒色腐植土層の14C年代測定を実施した結果,Cal AD 780-990の値を得た. 3.花粉分析結果  黒色腐植土層からは,木本花粉のハンノキ属(Alnus)や草本花粉のイネ科(Gramineae)が多産する.他の木本花粉では,マツ属単維管束亜属(Pinus subgen. Haploxylon),マツ属複維管束亜属(Pinus subgen. Diploxylon),カバノキ属(Betula),アカガシ亜属(Quercus subgen. Cyclobalanopsis),コナラ亜属(Quercus subgen. Lepidobalanus),ブナ属(Fagus)等が産出する.また,草本花粉ではヤナギ属(Salix),ヨモギ属(Artemisia)等が産出する.  このように,ハンノキ属の多産で特徴づけられる本層準は,上記以外ではガマ属(Typha)などの湿性種も産することから,一時的な水域を伴うような湿潤な地表環境であったことが推定される. 4.まとめ 越後平野中部では,平安時代前半(AD900)頃に広域に及ぶ湿潤化が生じ,一時的な水域を伴うような環境のもとで腐植土層が形成された.当地域における
    世紀
    後半~10世紀の考古遺物の検出量が少ないのは,氾濫原の低湿化による居住環境の悪化を反映したものと推定される. こうした同時的・広域的な環境変化は,氾濫原の通常の発達過程で生じることは考えにくい.この時期に何らかの大規模なイベントが生じたと考えられるが,この点については今後の検討課題とする.
  • 西山 孝樹, 藤田 龍之
    土木学会論文集D2(土木史)
    2014年 70 巻 1 号 9-19
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/07/18
    ジャーナル フリー
     わが国では,10世紀をピークとして
    9
    世紀
    から11世紀に「土木事業の空白期」が存在していた.その背景には,平安貴族を中心に土の掘削を忌み嫌う「犯土」思想が影響していたとみられる.そこで本研究では,空白期の存在をより明確にするため,当該の時代に設置された官職に着目した.土木と関わる官職が設置されていなければ,社会基盤整備を実施できなかったと考えられるからである.
     わが国の律令制度が倣った中国の唐および空白期と同時期に成立していた宋には,土木と関係する官職が設置されていた.一方,わが国の中央政府には土木事業を行う官職は設けられておらず,地方では災害発生時など臨時に設置されていたに過ぎなかった.
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    世紀
    から11世紀には,社会基盤整備に通じる事業を専門に掌っていた官職は存在していなかったことを本研究で示した.
  • ―― 9世紀カシュミールの詩Kapphinabhyudaya研究――
    横地 優子
    印度學佛教學研究
    2012年 60 巻 3 号 1153-1160
    発行日: 2012/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    Kapphinabhyudayaは
    9
    世紀
    カシュミールの詩人Sivasvaminによって著された長編詩である.2007年に龍谷大学よりこの作品の新しい校訂版が出版され,その研究は新たな段階を迎えた.その第一歩として,本論文では,従来仏教詩であると考えられてきたこの作品は,そのような表面的な意味に加えて第2の意味レベルを備えており,そこでは仏教とシヴァ教の競合,最終的なシヴァ教の勝利が意図されていることを分析する.
  • 山田 重郎
    オリエント
    2003年 46 巻 2 号 71-91
    発行日: 2003年
    公開日: 2010/03/12
    ジャーナル フリー
    This paper examines stylistic changes and variants in the Assyrian annalistic texts written in the ninth century B. C. and discusses their historical-ideological background.
    Toward the end of the second millennium B. C., Assyrian scribes started to compose royal inscriptions in various annalistic styles. In the beginning of the ninth century B. C., each campaign record included in the text was dated by a limmu, i. e. a year eponym, by which every year was named in Assyria from the Old Assyrian period onward. Annals in the limmu-dating style reached their most mature form with the Annals of Ashurnasirpal II.
    The first four annalistic texts of his son, Shalmaneser III, were composed in a similar form, using the limmus. After that, however, the royal historiographer produced annals in a new style, with one campaign recounted each year with the heading: ina x palêya “in my xth regnal year.” This style, probably invented under the influence of the Babylonian dating system, emphasizes the king's unremitting yearly activities.
    Composing annals in this style, however, encountered difficulties, when revised versions were compiled towards the end of Shalmaneser's reign. First, the deeds of the king's commander had to be inserted into the texts in order to fill the record in years in which the commander lead the army in place of the king, who could not do it in person. Thus, the royal annals deviated from the essential form of solely recounting the res gestae of the king. Secondly, the chronological ambiguity in the concept palû, which originally means “turn, ” not “a year, ” caused some defective chronological presentations in later years of the reign. These difficulties were overcome by the invention of still another type of annals in the reign of Shamshi-Adad V, in which each campaign account was headed by ina x girriya “in my xth campaign.”
  • 倉西 憲一
    印度學佛教學研究
    2016年 64 巻 3 号 1227-1231
    発行日: 2016/03/25
    公開日: 2017/09/01
    ジャーナル フリー
    ヤントラは,インドにおいて宗教の如何を問わず,古くから作成使用されてきた.インドの宗教においては,ヤントラは特に儀礼の補助あるいはその中心的役割をもった道具として使われている.ヤントラは基本的に線と文字で構成され,幾何学的図形で表されることが多く,その類似性からしばしば対比されるマンダラとは異なり,尊像など絵が描かれることはない.本論文で焦点を当てるインド後期密教のヤントラは,特に息災や調伏といった特定の願望成就を目的とした儀礼で使われていた.インド密教文献史上でヤントラ儀礼が組織的に登場するのは,およそインド後期密教が展開しはじめた
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    世紀
    ごろと考えられる.ただし,ヤントラ儀礼はそれ程多くのタントラで取りあげられているわけではない.ヤントラ儀礼を特に重要視し詳しく取りあげているのは,
    9
    世紀
    頃に編纂された『クリシュナヤマーリタントラ』である.そして,おそらくおよそ百年後に登場した『サンヴァローダヤタントラ』にも同じくヤントラ儀礼が説かれており,その文章から前者との密接な関係をうかがうことが出来る.そこで,これら二つのタントラの記述を比較し,インド後期密教におけるヤントラ儀礼の展開を垣間見ることが本論文の目的である.
  • 津久井 雅志, 中野 俊, 齋藤 公一滝
    火山
    2008年 53 巻 2 号 79-91
    発行日: 2008/04/30
    公開日: 2017/03/20
    ジャーナル フリー
    Based on geological and archaeological data as well as historic documents, we review eruptions and earthquakes which have occurred during the 9th century in central and east Japan. The results reconfirm vigorous activities on Izu Arc, Izu-Oshima(~838AD < N3, N2, N1 < 886AD), Niijima(~857AD and 886AD), Kozushima(838AD), Miyakejima(832AD and 850AD), and at Fuji volcano(800AD, 838AD < < 864AD, 864AD) during the 9th century. Beside these events, a big eruption of Niigata Yakeyama volcano had likely occurred in 887AD. Chokai volcano also erupted in 871AD, and 810-823AD. Collapse of Yatsugatake volcano took place in 887, probably invoked by a strong shock in 887. In addition, earthquakes with a magnitude from 7 to 8 had taken place along the Itoigawa-Shizuoka active fault system (in 841 or 762AD), Nagano fault system(887AD), Echigo plains(863AD), Shonai plains(850AD), Akita plains(830AD) and Nankai trough(887AD). As a result, we can point out a linkage of big eruptions and seismic activities in the 9th century over 800km long crossing Japan Arc. Geologically this seems to be a surface expression of East-West compression along eastern margin of Amurian Plate over 800km which was driven by the eastward motion of the plate. It is noteworthy to mention that the very similar volcanic and seismic activities have been occurring in the last 50 years to those happened in the ninth century, in their source areas and manners.
  • 田鶴 寿弥子, メルツ メヒテル, 伊東 隆夫, 杉山 淳司
    SPring-8/SACLA利用研究成果集
    2019年 7 巻 2 号 216-218
    発行日: 2019/08/29
    公開日: 2021/01/15
    ジャーナル オープンアクセス
    東アジア地域における木彫像の樹種情報の獲得は、我々日本のみならず東アジア地域の宗教上の繋がりや文化の伝播などを知る上で貴重な情報であり特に注目されてきている。本研究では、フィラデルフィア美術館に所蔵される日本の神像から採取された非常に小さな試料に、SPring-8の BL20XU でのシンクロトロン放射光X線トモグラフィーを適用し樹種識別調査を行った結果、Magnolia sp. が使用されていることを明らかにした。
  • 遠藤 耕太郎
    日本文学
    2011年 60 巻 1 号 2-14
    発行日: 2011/01/10
    公開日: 2017/08/01
    ジャーナル フリー
    7世紀から
    9
    世紀
    にかけて、唐王朝の周縁地域のさまざまな民族や国家は、唐文化によって自らの文化を捉え返し、帝国の一部として生きていく方法を模索していた。自民族文化の捉え返しはさまざまな面で行われたが、その一つに、漢字によって自らの民族の歌を表記するということがあった。本稿では、唐の周縁国家であった南詔と日本の歌表記のあり方を比較検討することによって、アジア辺境国家の歌の特質について考える。
  • 齋藤 晴美, 橋本 晃
    農業農村工学会誌
    2017年 85 巻 9 号 865-870,a2
    発行日: 2017年
    公開日: 2021/01/14
    ジャーナル フリー

    インドネシアのバリ島では,スバックと呼ばれる伝統的灌漑組織が

    9
    世紀
    には存在していたと言われ,今もスバックにより持続的な農業が営まれている。スバックは,アウィグ・アウィグという慣習法を持ち,灌漑水利組織であるとともに,農村の自治組織の機能も有し,また,ヒンズーの教えによる農耕儀礼の祭祀(さいし)を執り行う集団でもある。本報では,バリ島における農業および灌漑事業を概観した後,スバックの法や制度などの仕組み,灌漑施設の計画設計および農耕儀礼について報告する。さらに,組織,法律,制度などについてスバックと日本の土地改良区との比較検討を行った結果,スバックは日本のかつての水利組織にきわめて類似していることが明らかになった。

  • 吉田 明弘, 鈴木 三男
    季刊地理学
    2013年 64 巻 4 号 155-172
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/05/11
    ジャーナル フリー
    宮城県多賀城跡鴻ノ池地区における堆積物の14C年代測定,テフラ年代,花粉分析,出土材の樹種同定の結果から,多賀城周辺における高時間分解の植生復元を行った。この復元に基づき,多賀城周辺における古代の森林伐採と栽培植物を考察した。さらに,仙台平野周辺の考古資料をまとめ,古代の大和政権の東北進出に伴った広域的な森林伐採と地形形成への影響を検討した。多賀城周辺の丘陵地では,多賀城の築造前はコナラ属やクマシデ属など落葉広葉樹の自然林が分布していた。多賀城の築造後,丘陵地では森林伐採が行われ,陽地性で乾燥環境を好む草本植生が広がった。その後,継続的な森林伐採は,丘陵地の土壌侵食を増大させ,8世紀後半にはアカマツ二次林が成立した。
    9
    世紀
    初め以降には森林伐採が緩和し,丘陵地ではブナ属やコナラ亜属の二次林となった。多賀城の築造後,多賀城周辺の沖積平野では,人口増加を背景にして,大規模な水田稲作や畑作が開始した。一方,仙台平野周辺では,大和政権の進出に伴って窯業や製鉄業が盛んに行われるようになり,広域的な森林伐採が行われた。この森林伐採は,仙台平野への土砂流出を招き,7∼
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    世紀
    以降の海岸線の前進速度を増加させた可能性が高い。
  • 堀口 万吉
    日本地質学会学術大会講演要旨
    1990年 1990 巻
    発行日: 1990/09/25
    公開日: 2017/08/25
    会議録・要旨集 フリー
  • 川上 源太郎, 加瀬 善洋, 卜部 厚志, 髙清水 康博, 仁科 健二
    地質学雑誌
    2017年 123 巻 10 号 857-877
    発行日: 2017/10/15
    公開日: 2018/01/25
    ジャーナル フリー

    日本海東縁の沿岸域では,津波起源とされるイベント堆積物の報告が急増している.その時間-空間分布を整理し,地域間の対比と推定される波源を提示した.19~18世紀にはいくつかの歴史津波が知られ,地点数は多くないが対応するイベント堆積物が報告されている.18世紀以前は歴史記録に乏しいが,イベント堆積物から14~

    9
    世紀
    の間に次の4つの津波イベントの存在が示唆される-14世紀:青森~山形北部,12世紀:北海道南西部,11世紀(西暦1092年?):佐渡/新潟~山形南部,
    9
    世紀
    (西暦850年?):(佐渡~)山形~青森-.これらのイベントは日本海盆の地震性タービダイトにも記録されている.より古いイベント堆積物は,奥尻島や佐渡島などの離島で認められている.現時点では堆積物の起源の認定や正確な年代決定などに多くの問題が残っており,この総説が今後の問題点の解決と日本海東縁の古津波像解明の一助となることを期待する.

  • 長野西縁断層帯における古地震との関連
    *山田 明美
    日本地理学会発表要旨集
    2015年 2015s 巻 327
    発行日: 2015年
    公開日: 2015/04/13
    会議録・要旨集 フリー
    1 はじめに 長野県北部に位置する長野盆地西縁断層帯の大部分は1847年善光寺地震(M7.4)の際に活動したとされており(粟田ほか,1987),断層帯の活動履歴についてトレンチ調査や変動地形調査が行われている(粟田ほか,1990;宮内・武田,2004;杉戸・岡田,2006)。一方,地震や地殻変動について遺跡の液状化痕(気象庁地震観測所,1991)や生活面の撓曲変形(早津ほか,1999)が報告され,本断層帯との関係が議論されている。  遺跡に見られる液状化痕などは,地震発生時期の特定に有効な手段である。本稿では長野盆地周辺に残された地震痕跡を見出し,その全体像を把握するとともに,1847年善光寺地震の被害分布とも比較しながら,長野盆地西縁断層帯の過去の活動について検討した。  調査範囲は飯山盆地から長野盆地までとし,断層帯の発達形態の違いから,便宜的に飯山盆地以北を北部,長野盆地を南部,その間を中部とした。遺跡の地震痕跡は液状化痕,地割れ・断層,撓曲変形を調査対象とし,既存研究と遺跡の発掘調査報告書から地震痕跡の記録を見出した。 2 遺跡に刻まれた地震痕跡 断層帯北部の遺跡では,明瞭に地震痕跡と判断できるものは重地原断層の延長部に位置する東原遺跡の撓曲変形のみであった。断層帯中部では,弥生時代中期以降に形成された液状化痕を新たに見出した。断層帯南部では,盆地の南東縁に集中する液状化痕が12地点で見出された。液状化痕の形成年代は近世以降か,
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    ごろの2つの時期に限定できるものが多い。長野盆地東縁の遺跡からは複数の土層を切る地すべり起源の断層が認められる。 3 長野盆地西縁断層帯の活動履歴との関連 考古遺跡における過去4000年間にわたる地震痕跡の形成年代をまとめ,トレンチなど活断層調査からわかる活動履歴と比較した結果,断層帯全域におよぶ複数の地震痕跡が①1847年善光寺地震,②
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    ごろ,③3000〜3500年前の3つの時期に集中することが判明した。  ①善光寺地震に相当する近世以降に形成された地震痕跡は,北部から南部にかけて認められた。  ②善光寺地震と同様の規模の地震(先善光寺地震)はAD690〜AD1160にあったとされる(粟田ほか,1987;宮内・武田,2004;杉戸・岡田,2006)。その期間にほぼ相当する平安時代以降888年仁和洪水以前に形成された液状化痕の分布が,善光寺地震の痕跡と類似した分布を示していることから,
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    ごろに断層帯全域が活動した可能性がある。また,その年代は
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    以降AD888以前に限定でき,従来の研究よりも推定年代の幅が約300年狭まった。  ③3000〜3500年前に形成された地震痕跡は,飯山〜長野盆地で6箇所程度見出され,断層帯全域が活動した可能性がある。最北の東原遺跡は重地原断層の延長部にあたり,遺跡の床面が撓曲変形を受けている。従って重地原断層が北東に約5km延長できる。同様の期間に南部から液状化痕が認められたことから,地震活動が推測される長野盆地西縁断層帯と重地原断層は連動して活動した可能性がある。  変動地形調査によると飯山で過去4000年間に5回の地震が指摘されているが(宮内・武田,2004),本研究で認めた確実な地震活動の痕跡は3回にとどまった。①と②の間隔が約1000年であるのに対し,②と③の間隔が2000年以上であるため,②と③の間に地震活動があった疑いがある。発掘調査報告書の中には写真,スケッチ資料がないものもあり,地震痕跡が見逃されている可能性がある。北部における古地震についてさらに調査する必要がある。 参考文献 粟田ほか(1987)歴史地震 3 166-174. 粟田ほか(1990)日本地震学会予稿集 1 12. 気象庁地震観測所(1991)気象庁地震観測所技術報告 11 47-64. 寒川(1992)『地震考古学 遺跡が語る地震の歴史』中公新書. 早津ほか(1999)地学雑誌 108(1) 76-84. 宮内・武田(2004)活断層研究 24 77-84. 杉戸・岡田(2006)活断層研究 26 95-104. 
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